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2008年 09月 30日
ローマの休日
e0130549_1537870.jpg映画『ローマの休日』はなぜ人々の記憶に永く残る作品となったのだろうか。W・ワイラー監督の手腕、脚本の面白さ。様々なことが考えられるが、やはり印象に鮮やかなのは主演のオードリー・ヘプバーンとグレゴリー・ペックの爽やかな演技だった。だがこの映画にはもうひとつ大切な仕掛けがある。それはローマから始まる。

ローマにはカソリック教会の都と古代の都の二つの顔があり『ローマの休日』では古代の都ローマが背景として選ばれた。それはあの明るい白黒で描かれた町並み、コロッセウム、真実の口、喧噪と雑踏の中で自由に暮す人々の陽気さだった。

いまここで世界史の年表を眺めれば、ローマの遺産はまずヨーロッパに受継がれ、やがてメイフラワー号で新大陸アメリカにもたらされるのだが、これを文明史として眺めれば事情は異なる。実はヨーロッパ人が受継いだのは、ローマ帝国千年の歴史のうち最後の百六十年間に存在した、キリスト教を公認したローマ文明なのだ。

そのためヨーロッパ人は法の権威を神やキリストという絶対者に求めたが、古代ローマ人は法の権威を「建国の精神」に求めた。それは荒れ地を開拓して麦を播き、やがて収穫の季節に青々とした麦の穂を見渡すときの誇りだった。そして後世の歴史にもう一つ「建国の精神」を法の権威とした国があった。アメリカである。

アメリカ建国の父という言い方がすでにローマ的だが、その建国の父達は18世紀も後半の世界にあって、絶対者が法の権威に相応しいとは考えなかった。その判断の正しさはロベス・ピエールの主宰した最高存在の滑稽と、それに続くフランス革命の崩壊を歴史の陰影として後世の私達に教えている。

その信念がアメリカ人をローマに匹敵しようとする努力へ向かわせた。第二代大統領J・アダムズは夜になると部屋に閉じこもりキケロの演説を大声で朗読し、独立宣言の起草者T・ジェファーソンはバージニア州議事堂の設計をローマ神殿メゾン・カレに倣った。彼らは新しいアメリカこそ古いローマの正統な子孫だと信じた。

かくしてアメリカ人記者ジョー・ブラッドレーとプリンセス・アンはローマで出逢い、たった一日の自由を謳歌し、許されない運命ゆえに別れた。それはローマから派生した二つの文明がその原点で出逢い、恋に堕ちながらも再び別の道を選んだという文明のロマンスでもあった。ローマ・アメリカ・ヨーロッパ。この三角形の仕掛けが『ローマの休日』に甘美なだけではない深い奥行を与えている。

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by hishikai | 2008-09-30 15:57 | 文化
2008年 09月 22日
地方創権
e0130549_12522079.jpg地方分権は福沢諭吉の『分権論』以来様々に論じられて来たが、その歩みは遅々として進まず、近年では却って年金制度や福祉サービスの拡充を求める声の強まりと共に、中央行政の肥大化と集権化は益々進んでいるのではないかと考えざるを得ないことさえある。

こういったことは結局のところ日本人の自治意識の欠如から来ていることで、これには啓蒙運動を以てするより他に仕方のないことだが、一方でこれを制度面から見れば生活インフラから交通インフラに至る大型社会資本の運営管理と、そのための財政基盤の確保が都道府県単位では現実として不可能だという問題がある。

従って地方分権とは即ち道州制の実現であって中間はない。しかし道州制を実現するということは、財源と権限の委譲を頑なに拒む中央官僚の発想を遥かに飛び越して、立法権の委譲ということまでもが実現されなければならず、これには国家の弱体化を危惧する立場からの反対論もある。

これがイデオロギー的な方面から根本的に反対といったことであれば議論は別の観点に移るが、そうではなく地方分権即ち道州制ということから、権力の細分化による国家の弱体化を連想するのであれば、その原因はひとえに「分権」という言葉にある。

これは俗に三権分立といわれる権力分立構造を、統治権力の分割とそれら互いの非干渉によって公正な機構運営を期待するかのように理解することと同じ誤りで、本旨としての権力分立構造が強力な機構権力の互いの干渉によって均衡と抑制を期待することであることを想えば、地方分権の考え方も自ずと明かである。

つまり地方分権とは中央政府の10の権力を5:5に分割することではなく、中央政府の10の権力に対して地方政府の10の権力を創出するいわば「地方創権」に他ならない。またこれに伴う混乱には悲観的な側面ばかりではなく、司法による新たな見解の発見や、両者の折衝を通じた慣習の定着も期待される。

実践の次元で権限の分担が行われるとはいえ、重要なことは地方政府の新しい権力が、中央政府によって委譲された権力を基礎としてはならず、分担された権限は重複した領域を有して均衡しなければならないということで、そうではない字義に則した地方分権は、反対論の指摘通り国家を弱体化させるということである。

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by hishikai | 2008-09-22 13:05 | 憲法・政治哲学
2008年 09月 18日
混乱の洗練化
e0130549_0111629.jpg「ここで私は言いたいのだが、我々日本人に欠けているのは、混乱の洗練化という能力ではあるまいかということだ。少なくとも今までは、混乱に直面すると、性急に統一や統制を考えた。機械的裁断や極端な動反動の作用がそこに生じた。個人の場合でもすぐ『立場』とか『拠点』を求める。あるいはバックボーンの形成を急ぐのだが、その気持は当然としても、混乱自体に深く沈澱してゆく訓練が不足していたのではなかろうか」(戦後日本についての覚書/亀井勝一郎)

1957年に書かれたこの文章が2008年の今日に修正の必要もなく妥当するということは、先ずもって亀井勝一郎の千里眼に敬服せねばならないが、それと同時に私達日本人の頑迷にも悲しい敬服をしなければならない。そしてこれまで性急な混乱の回避に保守政党も加担して来たことはここで省みられるべきである。

それは保守主義が16世紀英国のR・フッカーを嚆矢とする経験主義の一形態で、人間の不完全性を前提とする故に、社会の諸問題を処理する知識を孤高の思想家の思弁的理論の中にではなく、歴史的経験によって蓄積された慣習に見い出そうとする信念だからである。

かように社会の諸問題を処理する知識を慣習に見い出そうとするならば、何はともあれ経験を覚悟しなくては始まらないのだが、ひとたび混乱が生じれば、これを性急に回避するための方策を口にする政治家を一般の保守層も支持してきのだから、戦後日本の保守主義が何であったのかということは今一度の検討に値する。

そういった状況の中で亀井勝一郎に類する発言をしたのが麻生太郎であったということは、日本人にとって薄暮の如き希望である。もっとも彼の公約する自由主義者に評判の悪い景気対策が失敗すれば、政権もまた短命に終わるであろうが、少なくとも彼が我国では異色な英国流保守主義者である可能性に言及せずに、彼の経済政策の当否のみを論ずるのは、我国における立憲政治の確立という観点からは片手落ちである。

ともかくもこれからの日本人は「混乱の洗練化」ということを肝に命じて置かないことには、これまでの意気地のない混乱回避策で国民の幇間と化した政治と、目先の安楽に拘泥する民心とを建て直すことは出来ないであろう。

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by hishikai | 2008-09-18 00:31 | 憲法・政治哲学
2008年 09月 16日
ある違和感への考察
先月今月と北朝鮮による拉致問題に関し「せいろん談話室」で奪還の手段として武力行使すべきという意見と、成功の見込みのない武力行使は行うべきではないという意見が議論され興味深く読んだ。これら二つの意見を比べたとき技術的には後者に理があるように思うが、さりとて私は軍事技術の素人であるため、この感想には「多分」という保留がつく。

ということで、もう少し素朴な気持で両者の意見を比べたとき、私が気になるのは成功の見込みのない武力行使は行うべきではないという意見にある計算式のようなすっきり感だ。こういう違和感が何から来ているのかと考えてみると、政治と人間世界と戦争の関係が思い浮かぶ。

まず政治が問題としているのは、国民への各種インフラを含む公共財の提供といった、いわば「公共の必要」に関する事柄だが、一方で人間世界全体が問題としているのはこれよりも大きく、飢餓や愛憎や生死といった、いわば「人間の尊厳」に関する事柄である。

そして政治と武力の接点には文民統制という軍隊を行政と見なして、これを制御しようとする技術があるが、今日の国家が不可欠としているこの技術が、しかし一方で常に万全に機能するわけではなく、その破錠が数度あったことも歴史の事実である。

こういうことがどうして起こるのかということは、技術的には軍隊という組織が他の行政よりも高度な専門性を必要とし、なおかつ大規模だということがあると思うが、より本質的には戦争が暴力で、暴力が政治の問題とする「公共の必要」ではなく、より大きな「人間の尊厳」に淵源を持っているためではないだろうか。

このことはアメリカ革命が「代表なくして課税なし」の言葉に示されるように「公共の必要」を争う革命で、その主張が制度構築をめぐる議論により貫徹されたのに対し、フランス革命が貧困を原動力とする「人間の尊厳」を争う革命で、その主張がギロチン台により貫徹されたという大西洋両岸の歴史に現われている。

そもそも英米流の考え方は、人間を非理性的なものとして捉えるため「人間の尊厳」という筋道から「公共の必要」を論ずることに否定的で、その分「人間の尊厳」を宗教に委ねている。従って武力を政治で制御しながら「正義の戦争」を唱えるといった具合に、その動機にはどこか宗教的な不合理を含んでいる。

これに対し社会主義と言おうか共産主義的な考え方は、人間を理性的なものとして捉えて「人間の尊厳」は「公共の必要」で解決されると考えるために武力もまた政治手段の完全な一部分となる。このことは「戦争は血を流す政治で、政治は血を流さない戦争だ」という共産革命の指導者の言葉に示されている。

我国は明治から敗戦まで英国憲法に属する帝国憲法を採用したため「人間の尊厳」と「公共の必要」は峻別され、従って武力も政治の干渉を忌避してきたが、戦後はフランス革命思想に属する憲法を採用したため「人間の尊厳」と「公共の必要」を同一視し、従って武力も政治の一部分となった。

しかしそもそも「公共の必要」より「人間の尊厳」の方が大きいのだから「公共の必要」と同一視された「人間の尊厳」は「公共の必要」のサイズに縮小された別物である。だから政治の一部分となった武力は従順であるが「人間の尊厳」の大きさを失っている。

ここで最初に戻って、成功の見込みのない武力行使は行うべきではないという意見を眺めてみると、そこには政治によって非常によく管理された従順な武力の存在が前提としてあり、そのことは取りも直さず戦後日本の政治と武力の関係を如実に反映しているように見える。

例えば拉致被害者の「人間の尊厳」の喪失に対する国民世論の激昂が、やはり「人間の尊厳」に淵源を持つ武力に点火され、その行使が政治の手を振り切るという事態を国家行為の「含み」としても私達が持ち得ない現状に全く悩まないとするならば、そこに想定された「人間の尊厳」は「公共の必要」のサイズに縮小された別物と考えざるを得ず、その倍率の歪みが私の違和感の中身である。

無論ここで私は成功の見込みのない武力行使は行うべきではないという意見を持つ方の「人間の尊厳」に対する観念が小さいと言っているわけではないし、現状への苦悩もあるだろうと思う。しかしそういう意見を読んで私が違和感を抱いたことも一方の事実であるために、その中身を包み隠さずここに述べたまでである。

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by hishikai | 2008-09-16 12:27 | 憲法・政治哲学
2008年 09月 12日
小沢一郎の政治哲学
e0130549_1364991.jpg私達日本人は1945年から1960年代まで敗戦を教訓として生きた。内政では大政翼賛政治への後悔から、選ばれざる指導者の暴走を抑えるべく、民主主義と国民の政治参加に普遍の政治原理の希望を託し、国際関係では第二次世界大戦の惨禍から、国家主権の暴走を抑えるべく国連に世界政府の希望を託した。

しかしその後の1970年代から2008年までは現実を教訓として生きた。内政ではグローバリゼーションの姿がはっきりと浮び上がってくる過程から、一国の政治は経済よりも小さいことを知り、国際関係では冷戦の終結による民族紛争と宗教紛争の頻発から、暴力の淵源は国家主権ではなく人間の情念であることを知った。

かように私達は経験に翻弄されて生きた。時代の中心課題を満たすべく様々な政治哲学が考えられたが、経験がそれらを次々に書き換えていった。確かにそれらは今でも本棚の奥から貴重な示唆を私達に与える。それでも時間が止まらない限り政治哲学に古いと新しいはある。

その意味で小沢一郎の政治哲学は古い。民主主義と国民の政治参加は人間の合理性への夢だったが、経済という人間の不合理性の渦がこれを超えたとき、合理性への夢は終わった。世界政府は人間の理性への夢だったが、民族や宗教という人間の情念がこれを超えたとき、理性への夢は終わった。

小沢一郎は言う。「政治の目的はみんなを幸福にすることだ」と。しかし「用意した幸福」を与えようとする合理性は「各人なりの幸福」という不合理性を想像しない。小沢一郎はまた言う。「国連の常備軍を日本が提供すべきだ」と。しかし世界政府という理性は、民族や宗教のために死にたいという情念を想像しない。

国連から国家、国家から個人と、全体から個別を語る政治家にとって、個人は親鳥の餌を待つ同じ顔の雛鳥でしかない。だがそれは人間の本性から目を逸らした夢だ。不合理性や情念がどんなに道徳に違反していようとも、それらを引きずり出して叩き直すことなど出来ないという、ここ30年の経験を彼は視ていない。

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by hishikai | 2008-09-12 13:09 | 憲法・政治哲学
2008年 09月 11日
麻生太郎氏の靖国神社特殊法人化案
麻生太郎氏の著書『自由と繁栄の弧』に氏の構想する靖国神社特殊法人化案がある。2006年に著わされたものだが、仮に麻生氏が総理に就任した場合、再び俎上にのぼることも考えられる為ここに整理する。内容は麻生氏の公式HPに掲載されたもの、及び朝日新聞に掲載されたものと同じ。

靖国神社に対する基本認識

(1)靖国神社は静謐な慰霊の場所であるため、政治からは遠ざける。
(2)靖国神社は日本人の集合的記憶であるので、代替施設はあり得ない。
(3)国家のための戦死者は、国家が最高の栄誉をもって祀る。
(4)天皇陛下の御親拝を実現しなければならない。

靖国神社の問題点

(1)靖国神社が宗教法人であるために、総理閣僚参拝と政教分離原則との関係が問題となる。
(2)民間団体であるために、ご遺族や戦友の方々の高齢化に伴って経営が逼迫する。

靖国神社の別形態への移行案

(1)靖国神社と護国神社を一体化して任意解散手続をとる。
(2)特別立法により特殊法人とする。
(3)名称は「国立追悼施設靖国社(招魂社)」とする。
(4)慰霊対象者は国会審議で決定する。
(5)祭式を非宗教的かつ伝統的なものとする。
(6)平和祈念事業特別基金を全部または半分程度、靖国社の財産とする。
(7)日本遺族会は公益財団法人とする。(崇敬奉賛会は現状のまま存続)
(8)付設の遊就館は行政府に管理運営を移管する。

私見

この案に賛成する。案の是非は靖国神社と日本遺族会の承諾如何にかかっている。両団体がこの案を承諾した時点で事の半分は終わっている。だが白紙委任ということはない。慰霊対象者と祭式が事前に内示され、両団体の検討を経て承諾案が作成され、残るはこれに対する民主党の賛否となるのではないか。承諾案がこの分水嶺を越えるようならば司法判断は合憲と出る可能性が高い。

だが護国神社との一括処理は避けるべきだ。戦前に行われた神社統廃合への強硬な反対運動を思い返しても、地域の信仰に触れることは得策でない。ナイーブな問題での時間的ロスは厳禁である。護国神社を現状で保全しても、この案への影響は少ない。御親拝の実現が最も重要である。

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日清役平壌戦(部分)平壌戦で勇戦する大島混成第9旅団 金山平三画 聖徳記念絵画館

by hishikai | 2008-09-11 12:20 | 憲法・政治哲学
2008年 09月 10日
麻生太郎氏の東アジア政策
e0130549_17252797.jpg麻生太郎氏の著書『自由と繁栄の弧』は氏が外務大臣を担当している時に著わされたもので、内政への包括的な方針といったものは見あたらない。しかし自身の構想する東アジアにおける三つの重点目標を掲げた箇所に、麻生氏の価値観が示されているように思うので、以下にこれを辿ってみたい。

「第一に自由、民主主義、市場経済、法の支配、人間の尊厳の尊重を促進することです」

一見して氏が自由主義的な思想傾向の持ち主であることが伺える。民主主義に関しても別の頁で「投票箱と市場の自由こそ最善」と述べ、民主主義の制度的側面と経済的効用とを結びつける功利的発想からも、その印象は強い。またこれまで我国の政治家の言及が少なかった法の支配に言及していることは特筆すべきで(この解釈は論者により幅があるものの)少なくとも氏が人民主権のような民意(人為)による国制の根本的変更(例えば国民投票による天皇制の廃止)を容認する思想に否定的であることは推測される。

「二番目に、偏狭なナショナリズムを排除することです」

氏はこれについて「国を愛する健全な心と他国に対する憎しみを助長する偏狭なナショナリズムとは異なる」と述べているが、果たしてどうであろうか。確かに「国を愛する健全な心」の持ち主が多数を占めることは望ましい。この点でも麻生氏は「投票箱と市場の自由」に期待するところが大きいのであろうが、例えば韓国の場合を考えても、やはりその効果には疑問が残る。それは諸外国と異なり、中国、韓国、北朝鮮が抗日を建国神話とし、偏狭なナショナリズムを統治原理の中心に温存しているために「投票箱と市場の自由」はこれに対して有効な接点を持たず、却って経済発展によるアイデンティティーの高まりが、偏狭なナショナリズムを助長するという悪循環を私達日本人が目撃してきたからである。

「三番目の目標は、アジアの政治・経済・軍事分野における透明性と信頼、ひいては予見可能性を高めることです」

経済分野の透明性は公正な競争を確保し、軍事分野の透明性は互いの猜疑心による破滅的な誤算を防ぐ。これらは共に予見可能性の向上にかかっている。このように個別的な働きかけよりも、予見可能性にかける辺りに麻生氏の価値観が表れている。これは我国の内政にも適用されることで、特定の個人や集団を対象とした法律が網の目のように施行されている国家では、新規参入者がこの法規制をクリアするコストを事前に計算するのが難しく、そのため市場の自由が確保されない。法や制度はあたかも公園のベンチのように、誰もが使えて、誰もが使い方を知っていて、誰もがその効果を知っている、本当の意味の公共財でなくてはならない。

麻生氏の外交政策の特徴は、政策対象に対し直接働きかけるのではなく、対象の周辺環境に対して自由主義的価値を流し込むことで、その成果を期待するという点にある。だが国内政策においてこの路線を堅持することは、日本国民の社会保障政策への情熱を考えれば、まず至難の業であろう。

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by hishikai | 2008-09-10 11:14 | 憲法・政治哲学
2008年 09月 09日
麻生太郎氏に期待すること
e0130549_16595211.jpg麻生太郎氏の著書『自由と繁栄の弧』には自身が2006年1月の国会演説で「我国には伝えるべき信条がありますが、それは言葉となって初めて信条と見なされるものです」と話したことが紹介されている。だが言葉が無ければ信条が存在しないという麻生氏の考え方は、不言実行を美徳とした我国の言語風土に照らして異色である。

加藤典洋氏は著書『日本の無思想』で、この点を次のように述べている。「もし、これ(言葉を含めた人間の行為)を思想表現だと考えるような視線がなかったら、そもそものところ、思想などというものは存在できない、ということです。思想だけではありません。あの信仰も、信念も、存在できないのです」

養老孟司氏は著書『無思想の発見』でこの考え方を取上げてこう述べている。「こういう人(加藤典洋氏)に、あるいはこういう信念に対抗しようと思えば、言葉にすることができることは、おそらく一つしかない。その答が『俺には思想なんかない』という言葉なのである。さもなければ、ひたすら黙るしかない」

佐藤弘夫氏は著書『神国日本』で「ひたすら黙る」態度は、古代日本人が大陸の整然とした論理に遭遇したとき、これに沈黙で対抗した記憶の名残りだと言う。だが黙っていては生活ができないのだから「ひたすら黙る」とは単なる沈黙ではなく、言葉で探り当てなくとも既に存在が確認されている事柄に限って発語することを指す。

小林秀雄氏は著書『Xへの手紙』で「2×2=4か、それとも文体の問題かどちらかに帰着する」と述べた。それがここに関係する。丸山真男氏は言う。「一方の極には否定すべからざる自然科学の領域と、他方の極には感覚的に触れられる狭い日常的現実と、この両極だけが確実な世界として残される」

これが現代で算盤帳簿の数字と近所の動向を証拠として世界を語る態度となる。それが本来公的な使命を負った国政に、個々人の生活保障を票と引換えに強要し、そのことの正否で政権の浮沈が決する現代日本の政治万能主義を生んでいる。それがいわゆる「国民目線の政治」と呼ばれているものの中身だ。

もし麻生太郎氏が次期総理に就任されるのであれば、願わくばこの世相に迎合することなく、信条の証しとしての言葉を使用し、既に存在が確認された陳腐な数字や垢にまみれた生活の言葉を使用せず、本当に言うべき事を、内面から真直ぐに紡ぎ出して頂きたい。

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by hishikai | 2008-09-09 17:19 | 憲法・政治哲学
2008年 09月 05日
anowl様
まず最初に拙稿の視点にご理解いただき、御礼申し上げます。ありがとうございます。仰るように、近現代の状況からいえば「国家・市民社会・家族」といった三つの視点を提示して、その中から日本の政治論を立ち上げなければならないのですが、残念ながら私にその力がなく、古代ギリシャをモデルに使用しました。

そしてこれも仰るように、福田康夫氏に限らず現在の政治家は、せいぜい「市民社会」の話にしか興味がないようです。これは「公共・家政」の家政から分裂して成立した、市民社会と家族が日本人の空間の全てを占めてしまった結果、真の公共としての国家(「普遍・特殊・個別」でいえば普遍でしょうか)が、現実として消滅しているためではないかと思います。

このことは野に在って掲示板や、ブログで日々奮闘している方々の言説にも、政府が国民生活を保障すべき事、さらなる福祉の充実を計るべき事などが自明として語られ、真に公共の事柄に特化した政府のあり方に言及されることの少なさに鑑みても、伺い知れるように思います。

これを法の立場から見るとき「法は一般的・普遍的な形式を持つべき」という主張に対して「それは形式的すぎ、弱者強者の不平等を考慮していない」と論じられた結果、これが社会的正義論として大衆社会で力を持ち、投票を通じて民主過程に流れ、法の一般性・普遍性が失われ、特定の個人や団体を対象とした法律の制定が至極当然の事になってしまったのではないかと思います。

しかしこのような法律は、英米では「個別法」欧州では「措置的法律」と呼ばれ、一般法からは区別されており、政府が国民生活に対し微細に干渉する現在の我国の統治方法が、決してあたりまえではないということ、それにもまして、このような統治方法は財政的逼迫、自治精神の毀損、公共意識の喪失といった大きなマイナス面を持つことは、さらに国民の間で認識されていくべきではないかと思います。

このような状況を転換する可能性があるのは、anowl様がスイス論で触れておられた道州制の実現ではないでしょうか。これにより地方政府に「家政」を委譲することで、真に「公共」の事柄に特化した中央政府が誕生し、引いては国民意識にも何らかの変化がもたらされることと思います。これは貴稿にあります議会の定数削減の箇所と同じ意味で、私はこれに全面的に賛成致します。

またリンクされてありましたanowl様の過去の論考を拝読させて頂き、いま一つ共鳴致しますのは、自民党が良いのか、民主党が良いのかといった以前の事として、日本の政党が政策理念の実現を目的とした集団となるべき、そして利益選挙談合政治屋集団という体質から脱すべきという主張です。これにつきましても、個々人にある思想信条の違いを越え、根本のこととして全面的に賛成致します。

最後に福田内閣メールマガジンにつきましては、私も定期購読していますので少々驚いた次第です。特に「常に新しい伊勢神宮」とは式年造営を指していると思われ、いっその事「太陽と海と伊勢神宮」から法相唯識説の輪廻転生を説いて「私はまた帰ってきます」と結べば、あるいはこの潮騒から豊穣の海への展開に対し私は感涙に咽ぶことが出来たかも知れず、ここは惜しまれるところです。

冗長に駄文を連ね、失礼致しました。あまり推敲もせずに書きましたので、至らない点も多いと思いますが、ご容赦下さい。いつもanowl様の論考には啓発されて、眠い眼を擦りながらキーボードを叩く活力とさせて頂いております。あるいは意見の相違もあるかと存じますが、今後ともご鞭撻のほど何卒宜しくお願い致します。

by hishikai | 2008-09-05 12:00 | 憲法・政治哲学
2008年 09月 04日
福田康夫氏
e0130549_230073.jpg古代ギリシャの都市国家には二つの空間があったという。ひとつは人間の多様性を前提とし、言葉と討論により価値を創り出して政治を司る公共の世界。もうひとつは人間の共通性を前提とし、個の生存と種の保存を目的として生活を司る家政の世界。

福田康夫氏は施政方針演説で基本方針の第一を「生活者・消費者が主役となる社会を実現する国民本位の行財政への転換」と言い、自身の改造内閣を「安心実現内閣」と言い、新しく設置する役所が「消費者庁」で、基本理念が「自立と共生」であった。生活者⋯。消費者⋯。安心⋯。共生⋯。

これら全ては家政の言葉、人間の共通性を前提とした生活の言葉だ。現代は古代ギリシャではないから、家政など政治の範疇に含まれないとは言えないだろうが、やはり政治が第一に標榜すべきは外交・防衛・予算といった公共の世界に関与する言葉だ。家政の世界に関与する言葉を第一に標榜する政治は本来の姿ではない。

病院の前で「医療費が心配⋯」とか、スーパーマーケットで「バターが高い⋯」とか、回転寿司屋で「トロが食べられないとねえ⋯」などとマスコミのインタビューに答えている連中が国民共通の姿を表しているわけではない。年寄りはくだらないバス旅行をやめればよろしい、主婦はバターなど太るから使わんでよろしい、トロなんか食う奴は田舎者だ。

政治家は政策本位であるべきと言われて久しい。だが政策の淵源には必ず思想がある。思想は表明されて始めて存在する。表明されない思想は存在しない。これは言葉への信の問題、言葉の持つ力をどれほど信頼するのかということへの表明でもある。これがなければ公共を作り出すことは出来ない。

福田康夫氏は以前より著作で思想信条を語らない、言葉へのニヒリストだった。この事は福田氏が公共の人ではなく家政の人、討論の人ではなく台所の人、オジサンではなくオバサンである事を示している。福田氏が家政へと流れた本質的な原因は、福田氏と言葉の関係だ。官房長官の頃はよかったのに⋯という声も聞くが、官房長官が総理の女房役とは偶然の一致ではない。後任者には明快な雄弁を期待したい。

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by hishikai | 2008-09-04 03:03 | 憲法・政治哲学