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2008年 10月 16日
『短歌と哲学』を読んで
そら様、こんにちは。『短歌と哲学』興味深く拝読しました。短歌を詠じ情景と人の心に想いを馳せるとき、短歌は日本人の持った表現形態のうちで最善最美のものであると感じます。それだけに難しいなと感じることも度々ですが、それでも西行以前の難しさと西行以後の難しさとでは、難しさの種類が違うようです。

一般に理解されている範囲では、西行以前の難しさは古代の言葉や習俗への理解に関わっていますが、西行以後の難しさは、そら様もご指摘のように西行とその時代の持つ形而上的な対象への理解に関わっているようです。その転換点の先頭を歩き続ける西行の姿に先駆者としての偉大があり、孤独があり、魅力があるのかも知れません。

そのためかどうか定かではありませんが、西行への関心は近代人の心に特に強いように思われます。例えば小夜の中山の「命なりけり」を巡る荻原朔太郎や小林秀雄の評論は面白いのですが、彼らの傾向として西行的な価値を重視するあまり、西行以前の宮廷歌を軽く見ていることが私にはしっくりきません。

ですから、そら様が西行以後の展開にご関心があるのは承知の上で、それでも歌の本質は古今集仮名序にあるという、前提としてのご指摘の方に重心を置いて私は賛成します。これは一般的に西行以前の歌が「単なる自然に対する叙情や恋愛感情の発露に過ぎないと思われてきた」ことへの問題提起という側面があります。

例えば藤原俊成は自著『古来風体抄』で天台『摩訶止観』を応用して、花紅葉の持つ色香に心が感動して歌が生まれるという紀貫之の説を逆転し、あらかじめ歌がなければ人は花紅葉を見ても色香が分らないのだという唯識論を展開しています。西行以前の歌にもこのような理屈のあったことは見直されても良いと思います。

もちろん西行のように、あるいはそら様が考えておられるように、歌を通じて人間の懊悩を表現し、実存を記録し、哲学的思考に潤いを与えることも歌の大きな可能性であると思います。むしろその方面にこそこれからの短歌の役割があるのかも知れません。ですが天の邪鬼である私は西行以前の歌に沈んでみるつもりです。

さっぱり纏まらない内容で失礼致しました。以下は私が以前に書きました短歌についての文章です。いまいちですがご覧頂ければ幸いです。

和歌に附いての私見
西行と定家

by hishikai | 2008-10-16 00:46 | 文化
2008年 10月 15日
お手軽な合理主義
e0130549_212617.jpg「私の推論では、比較的最近まで競馬の観衆はほとんど、馬について何ごとかを直接に知っている男女で、真に教養ある人々であった。しかし今ではアイルランドを例外として、そうではなくなっている。それで、自己教育の能力も意志も機会もなく、かつ自分の苦境から抜け出る近道を求めている無知な観衆は本を必要とするのである。その種の本のひとつである『クラシックレース案内、ダービーの勝者を当てる法』※)の著者たちは、技術知と全面的な知との違いに気付いており、勝ち馬を当てる技術知には一定の線を越えると、はっきりしたルールのなくなる限界があり、そこでは『知性』が不可欠なのだということを指摘するのに苦労した。しかし自分の貧しい知性を真に教養ある人々と同じレベルに置いてくれるはずの誤り得ない方法を探しているその本の欲張りで合理主義的な読者たちは、くだらぬものを買わされたと思ったのである。このことは、彼らがデカルトの代わりにアウグスチヌスかヘーゲルでも読んだ方が、時間の使い方としては、どんなにましであったかということを示している。私はデカルトを許せない」(政治における合理主義/M・オークショット)

競馬は掴み所のない現象である。この不明瞭な事実を追い払うために、我国でも競走馬の走破タイムを指数化して比較する方法や、さらにこれを精密化した方法が様々に提唱されているが、これらの技術知が競馬という現象を何ら解明しないことは、大衆紙で毎週のように報道される高額の配当を見れば明らかである。

これは社会に対する認識についても同様で、例えば『⋯になる秘訣』といった処世本が書籍売上ランキングの上位を占める現状は、それだけ多くの人々が「自分の貧しい知性を真に教養ある人々と同じレベルに置いてくれるはずの誤り得ない方法を探しているその本の欲張りで合理主義的な読者たち」であることを示している。

しかしM・オークショットも指摘するように、画家が本によって伝えることができるのは絵の描き方で、音楽家が本によって伝えることができるのは作曲の方法である。一方で、どうすれば美しい絵を描くことができるのか、どうすれば美しい音楽を作曲することができるのかは、すでに彼らの作品の中に語られてしまっている。

このような全面的な知は伝えようとしても伝えられない。それは忍耐強く継続された努力によってのみ伝達可能であって、これを一足飛びに合理的な技術知へと還元して、あたかも薬を飲むように実現することなど不可能である。そのようにデカルトを誤解した人々にとっては、まさに「アウグスチヌスかヘーゲルでも読んだ方が、時間の使い方としては、どんなにましであったか」知れない。

※M・オークショットも著者の一人。

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by hishikai | 2008-10-15 02:51 | 文化
2008年 10月 06日
理想という名の苦しみ
e0130549_1242742.jpg昨今ではジャーナリズムの専売であると思われていた政権与党への憎悪が、意外にも保守的であると思われていたネット言論の中に多く見られる。このような言論の拡がりは小泉路線への反感を背景としているが、しかし一方でこれが野党である民主党の支持拡大に正比例しているのかと言えばそうでもない。

したがって考えられるのは、このような言論の拡がりが表明しているのは一定の政治路線への支持ではなく、もっと根本的に政党政治そのものへの苛立ちであるということだが、そうであるとすれば中山前国交相の発言を受けて民主党議員が示した、現在は昭和初頭の政治状況に似ているという認識は偶然にも正しい。

政党への苛立ちとは、即ち政党という制度が人々の多様な選好を集約して統治に反映させる点で民主主義的である一方で、公的な政治活動を少数者の特権とする点で、つまり国民の政治参加を民主主義の鉄則と理解する人々にとっては、それが寡頭制的であることへの苛立ちである。

であるならば人々は代表者に権力を委託する政党制に代えて、自らが各々に権力となるべく政治体を組織するいわば評議会制を支持するべきである。これは1789年のフランス革命から1956年のハンガリー革命に至る歴史の上で度々実現されてきたことで、戦前我国の農本主義者もこれに類した制度を提唱している。

政治への苛立ちとは、即ち統治の目的が国民福祉の充実であるという、戦前への償いに根差しながらも戦前と同じく統治目的の単一化を支持する感情が、統治目的を国家生存に見い出す戦前的な感情と、統治目的を諸個人間の権利調整に見い出す英米的感情の混在に対して清々しい勝利を獲得できないことへの憤りである。

統治の目的が国民福祉の充実だけであるならば、統治は管理であって専門知識を有した行政官僚団の専任事項となる。そのような国家に於ける政治の役割とはせいぜい官僚団の監視で、既に我国ではそうであるが、それは本質的に非政治的である。このような管理国家を無批判に受入れ、統治の中にある様々な側面を承認しない態度は政治と馴染むことがない。

いずれにせよこういった事は、革命に続く後の世代が革命精神を理想化するように、日本人の脳裏で戦後六十余年を経て民主主義が理想化された結果、どのような形態と時代であれ統治とは少数者が多数者を支配するのだという民主主義にとっては耐え難い常識を、耐え難いが故に日本人が忘却してしまった為に起こる苦しみである。

(画:K・コールウィッツにより1899年に制作されたエッチング)

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by hishikai | 2008-10-06 12:17 | 憲法・政治哲学