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2008年 12月 30日
椿
e0130549_1202989.jpg父は幼い私を連れてよく酒場に通った。その店の壁には伊豆大島の観光ポスターが貼ってあり、あんこ姿の女性が椿に寄り添って微笑んでいたのを、私は退屈紛れに眺めていたように憶う。その時のサイダーの瓶、裸電球、酔っ払いの話し声、そんな事どもが思い出されて、その後数年を経ても私は椿を好きになれなかった。

だが学生になった冬晴れの日のこと、農家らしい家の前を通りかかったときに、その家を囲む丈の高い生垣が全て椿の木で作られていて、そのぎっしりと詰った濃緑の葉壁を凌いで、ほとんど無数ともいえるほどの赤い花が一面に咲いているのを見て、私は初めて椿を美しいと思った。

奈良では東大寺、傳香寺、白毫寺の椿を三名椿と称しているが、私はその中の白毫寺の五色椿を以前に訪ねたことがある。それは高円山の傾斜に沿った長い石段を上り詰め、古い山門をくぐった左手にあって、一木に五様の花をつけて、それらを独り足下の深い苔にポタリポタリと落としていた。

そうした椿の侘びしげな風情は実に良い。だがもう一つのこととして、遥か古代の万葉人達が小さな花々の一面に咲き誇る椿の野性を愛したことを想像してみるのも、また良いのではないか。「巨勢山の つらつら椿つらつらに 見つつ思はな巨勢の春野を」などは、その当時の感覚を今日に伝えている。

この歌が詠まれた大宝元年(701年)は官司制の充実に力を注いだ推古朝から七十余年、絢爛な大陸文化が華開いた天智朝から四十余年の歳月が流れ、国を率いた新知識にも翳りがみられた。だが「巨勢山の」に始まるこの歌の無数の椿は、その葉蔭に宿す時代の翳りからもなお、浮き立つ如く可憐に咲き出ているのが印象深い。

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by hishikai | 2008-12-30 02:05 | 文化
2008年 12月 26日
『風邪ごこち』永井荷風(抜粋)
e0130549_1112978.jpg増吉はその裾を踵で踏まえながら、縫模様の半襟をかけた衣紋を正して、博多の伊達巻きを少しは胴のくびれるほどに堅く引き締めると、箱屋は直ちに裾模様の二枚重ねを取って、後ろから着せかけて置いて、女がその襟を合せている暇には、もう両膝をついて片手では長く敷く裾前を直してやり、片手では薦の上なる紋羽二重の長さは丸一反もあろうというしごきを、さっと捌いてその端を女の手に渡してやった。(中略)

この年月見馴れに見馴れた事ながら、男はさすがに始終肱枕の眼を離さず眺めている中、これも今夜初めてというではないが、芸者がお座敷という一声に、病を冒して新粧を凝らし、勇ましくも出立って行く時の様子は、あだかも遠寄せの陣太鼓に恋も涙も抛って、武智重次郎のような若武者が、緋威の鎧美々しく出陣する、その後姿を見送るような悲哀を催させるものだ⋯と思った。

箱屋は袋につつんだ三味線を持って、這入って来た時のように腰をかがめて出て行くと、増吉は男の傍に膝をつき、締めたての帯の間から、今挟んだばかりの煙草入れを抜き出しながら、

「お化粧したらかえって気がさっぱりしたようだわ。それじゃア、私行って来ますよ。早く貰ってすぐ帰って来るから、待ってて頂戴よ。晩の御飯一人でたべちまっちゃアいやですよ。」

「姐さん。車が来ました。」と下の方で下女の声。

男は半身を起こして唯だ頷付いていると、女はその手を軽く握って、「お腹が空いたら、私の牛乳があるから、あれでも飲んで置きなさい。」それから何ともつかずに唯だ、「よくッて?」と嫣然(にっこり)して見せて、増吉は褄を取って梯子段を下りた。(風邪ごこち/永井荷風)

まあね、人間はこうでなくっちゃア、いけない。大正初年当時は社会問題を扱った作品が許されないから、やむをえずこうした短篇を書いたと永井荷風は言うけれど、それにしては筆が冴えていて、ヒヤリとした好い女が見えるようだ。エッ頽廃的?そうですか、こんな結構な頽廃なら私はいつでもお引き受け致しますがね。

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by hishikai | 2008-12-26 01:29 | 資料
2008年 12月 24日
『江戸の残党』岡本綺堂(要約)
e0130549_2334650.jpg明治十五、六年の頃と思う。毎日午後三時になると一人のおでん屋が売りに来きた。歳は四十五、六であろう。頭には昔ながらの小さい髷を乗せて、小柄だが色白で小粋な男だ。手甲脚絆のかいがいしい出立ちをして、肩におでんの荷を担ぎ、手には渋団扇を持って、おでんやおでんやと呼んで来る。実に佳い声であった。

このおでん屋は私の父に逢うと互いに挨拶をする。子供心に不思議に思って聞いてみると、これは市ヶ谷辺に屋敷を構えていた旗本八万騎の一人で、維新後思い切って身を落し、こういう稼業を始めたのだと云う。あの男も若い時にはなかなか道楽者であったと、父が話した。

やはり十七年の秋、涼しい夜だったと思う。父と四谷へ散歩にゆくと、四谷伝馬町の通りには幾軒の露店が出ていた。その間に筵を敷いて坐っている一人の男が、半紙を前に置いて頻りに字を書いていた。今日では大道で字を書いても銭を呉れる人はあるまいが、その頃には通りがかりの人が幾許かの銭を置いたものである。

うす暗いカンテラの灯影にその男の顔を透かして視た父は、一間ばかり行き過ぎてから私に二十銭紙幣を渡して、これをあの人に遣って来いと命じ、かつ遣ったらば直ぐに駆けて来いと注意された。二十銭は多過ぎると思ったが、私は云わるるままに札を男の前に置くや否や一散に駆け出した。これに就いて父は何も語らなかった。

その時に彼は半紙に向かって「⋯茶立虫」と書いていた。上の字は記憶していない。今日でも俳句で茶立虫という字を見ると夜露に濡れた大道に坐る浪人者のような男の姿を思い出す。江戸の残党はこんな姿で亡びてしまったものと察せられる。

─岡本綺堂の小説『猿の眼』には上述と似た場面が登場する─

「明治四年の十二月の寒い晩に上野の広小路を通りますと、路ばたに薄い蓙を敷いて些(ちっ)とばかりの古道具をならべてゐる夜店が出てゐました。芝居に出る浪人者のやうに月代を長くのばして、肌寒さうな服装(なり)をした四十恰好の男が、九つか十歳(とお)ぐらゐの男の児と一緒に、蓙の上にしよんぼりと坐つて店番をしてゐます。」(猿の眼/岡本綺堂)

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by hishikai | 2008-12-24 02:37 | 資料
2008年 12月 22日
自由について
e0130549_14154386.jpg政府は個人生活を保障すべきという主張が再び台頭している。この主張の危うさは、これと本質を同じくする社会主義や共産主義という計画経済の失敗によって明らかだが、それが繰返されるとき人々は失敗の原因について、経済非効率性という一見修正可能な問題を語り、より本質的で修正不可能な自由の問題を語らない。

人間には自由がある。自分の運命に、自分の環境に自分なりの態度をとるという人間としての自由がある。そのことで人間は人生を自分のものとし、やがて迎える死に対しても何ごとかの態度を示すことができる。それがどんなに惨めなものであろうとも、これが自分の人生だという自負に国家の恩寵が勝ることはない。

この自由を取り上げることはどんなに殊勝な国家機関にもできないし、またするべきでもない。これを取り上げられた人間が生物としての死を迎える以前に、存在としての死を迎えることは過去の歴史が教えている。計画経済は人間の核心、この自由を完全に見落としている。

なぜ計画経済が自由を見落とすのか、私は詳しくは知らない。しかし印象として、彼らが人間に経済的な問題から解放された後に営むべき「人間らしい生活」があると考えているように見える。だがその心理は物質生活を侮蔑している。その解放は善意の看守が人間を清潔な牢屋に閉じ込めることに他ならない。

いやそれは甘い、本当に貧乏になったら人間に自由などないという意見もあるだろう。だが少なくとも私は、各所の喫茶店のランチのサンプルを貰い歩く貧乏暮らしから、人間を最も明るく照らすのが運命と戦う白熱で、その白熱に照らされて人間は始めて自由なのだという、彼らの考えとは正反対の事実を以前に学んだ。

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by hishikai | 2008-12-22 14:31 | 憲法・政治哲学
2008年 12月 19日
廃虚の季節
e0130549_14595223.jpg「じっさいあの『廃虚』の季節は、われわれ日本人にとって初めて与えられた希有の時間であった。ぼくらがいかなる歴史像をいだくにせよ、その中にあの一時期を上手にはめこむことは思いもよらないような、不思議に超歴史的で、永遠な要素がそこにはあった。(中略)ぼくらはその一時期をよびおこすことによって、たとえば現在の堂々たる高層建築や高級車を、みるみるうちに一片の瓦礫に変えてしまうこともできるように思ったのである。(中略)そのせいか、ぼくには戦前のことよりも、戦後数年の記憶の方が、はるかに遠い時代のことのように錯覚されるのだが、これはぼくだけのことであろうか?
 ともあれ、そのようにあの戦後を感じとった人間の眼には、いわゆる『戦後の終焉』と、それにともなう正常な社会過程の復帰とは、かえって、ある不可解で異様なものに見えたということは十分に理由のあることである。三島がどこかの座談会で語っていたように、戦争も、その『廃虚』も消失し、不在化したこの平和の時期には、どこか「異常」でうろんなところがあるという感覚は、ぼくには痛切な共感をさそうのである。」(若い世代と戦後精神/橋川文三)

徴兵検査に失格して戦後に共産党員となった橋川文三は、しかし歴史の喪失感に於いて三島由紀夫のそれと同じであった。戦前と戦後の間に存在し歴史の連続を遮断している「壁」の、自身は向う側に魂を留めながら肉体はこちら側に日を送ることによって、橋川文三は廃虚と繁栄の二重写しの幻影の中で日本と接していた。

そのような橋川文三の眼からすれば、昭和三十年に『太陽の季節』昭和三十三年に『飼育』で世間の華々しい注目を浴びた石原慎太郎と大江健三郎という戦後の新しいランナー達の姿にも「どこか『異常』でうろんなところがある」と映った。

橋川文三は石原慎太郎も大江健三郎も共に「壁」を信奉していて、一方は「壁」への盲目的な体当たりを言論とし、一方は「壁」への呪われた凝視を言論とするのみで「壁」を歴史的に相対化する志向に欠如しているために、その姿はいかがわしい「平和」の中でむずがったり脅えたりしている子供のようだと言った。

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by hishikai | 2008-12-19 15:01 | 大東亜戦争
2008年 12月 17日
五勺の酒
e0130549_111521.jpg「そこで甲高いはや口で『家は焼けなかつたの』『教科書はあるの』と、返事と無関係でつぎつぎに始めていつた。訊かれた女学生は、それも一年生か二年生で、ハンケチで目をおさへたまま返事できるどころではない。そこでついてゐる教師が──また具合よく必ずゐるのだ──肘でつついて何か耳打ちをするが、肝腎の天皇はその時は反対側で『家は焼けなかつたの』『教科書はあるの』とやつてゐるのだからトンチンカンな場面になる。さうして、帽子を冠つたと思へばとり、冠つたと思へばとり、しかしどうすることが出来よう。移動する天皇は一歩ごとに、挨拶すべき相手を見だすのだ。(中略)もういい、もういい。手を振つて止めさして、僕は人目から隠してしまひたかった。(中略)二十前後から三十までの男の声で、十二三人から二十人ぐらゐの人間がゐてそれがうわはゝと笑つてゐる。いひやうなく僕は憂鬱になった。なるほど天皇の仕草はをかしい。笑止千万だ。だから笑ふのはいい。しかしをかしさうに笑へ。快活の影もささぬ、げらげらッといふダルな笑ひ。微塵よろこびのない、一さう微塵自嘲のない笑ひ。僕は本たうに情けなかつた。日本人の駄目さが絶望的に自分で感じられた。まつたく張りといふことのない汚さ。道徳的インポテンツ。へどを吐きさうになつて僕は小屋を出て帰つた。」(五勺の酒/中野重治)

中野重治は占領政策に便乗する人々の有様に憤った。それは中野重治の共産主義者としての思想を超えたところにある怒りだった。また彼は『アカハタ』で天皇の人間宣言を「贋金」と罵ったが、それは後年三島由紀夫によって書かれた『英霊の聲』の「などてすめろぎは人となりたまひし」と不思議に重なっていた。

エゴイズムを解放しよう、強欲な野心こそ真のヒューマニズムだと主張する闇市の民主主義者を中野重治は認めなかった。そして「彼らは死んだものを土台として目的を達しようとしてゐる」と言った。占領軍に容認された解放の風潮に乗って民主革命の旗を振る思い上がり、そういう人間のいかがわしさを許せなかった。

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by hishikai | 2008-12-17 11:07 | 大東亜戦争
2008年 12月 10日
東洋の時間と空間
e0130549_16512116.jpg今日のように文学を活字本で読み、絵画を美術館や画集で鑑賞するのは、その前提として文学を時間的芸術形式、絵画を空間的芸術形式と捉えて両者を別個に認める意識が私達にあるためだが、これはむしろ近代の考えで、古代の人々は時間と空間の表現を一つの形式に織込もうとして苦心し、またそれを当然だと考えていた。

八世紀、唐の都長安では通俗な言葉で経典の内容を説き聞かせる俗講という催しが各寺院で開かれ賑わったが、そのとき僧は絵画を掲げてこれを指し示しながら、散文による語りと韻文による唱いを交互に繰返して、人々に仏の教えを平易に説いたという。

その実例と目されるのが敦煌より出土した『牢度叉闘聖変』の巻画で、ここには表面に牢度叉と舎利弗の幻術比べが絵画として描かれ、裏面に物語の韻文が書かれていて、その存在は往時これを高々と掲げた僧の唱声と人々の嬌声の交錯を伝え、そして何よりも一つの表現形式に織込まれた時間と空間の交錯を私達に伝える。

このような典籍が我国に伝来した記録として正倉院文書に『古今冠冕図一巻』の書名があり、次に藤原佐世が宮中の本を分類した『日本国見在書目録』に七十八の図入りと思しき書名がある。そしてその中の十二までが唐の歴史書『歴代名画記』に同じくあることは、奈良朝の人々の大陸文化に寄せる知的関心の高さを示している。

やがて九世紀も後半、宇多天皇の御代に白居易の長詩を和訳した上に絵と和歌が加えられた『長恨歌』の物語が制作されて『伊勢集』にもその時に作られた歌が記録され、後の『源氏物語』の「絵合」にも源氏が取出して見る絵巻の中に『長恨歌』の書名が見られるといったように、これが我国の「絵巻」の有力な嚆矢となる。

これと同じ頃に宮中や貴族の邸宅に設えた屏風の絵が、それまでの漢詩文に則した風景や風俗から日本の景色へと変化していったことは『古今集』や『拾遺集』からも明らかで、ここに「やまと絵」の源流を見ることができる。これが上述の「絵巻」と相まって時間と空間を渾然一体とした我国の「絵巻物」へと繋がっていく。

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by hishikai | 2008-12-10 17:24 | 文化
2008年 12月 05日
中世欧州に於ける詩的文芸の果実
e0130549_12472140.jpg中世欧州、とりわけ十二世紀は後の豊かな欧州の基礎となった。幾つもの大学が設立され、審美的な趣味が大聖堂やフレスコ絵画と多声音楽に発揮された。熱心な教育が洗練された文芸を生み出して浪漫と武勲を語った。中でも吟遊詩人はラテン語の代わりに自国の言葉をその表現に用いて先駆的だった。

最初の吟遊詩人は十字軍あがりの美食家、アキテーヌ公ギョーム九世。彼は自らの筆を詩に染めるだけではなく、多くの詩人と共に暮した。彼の孫娘エレオノールも、夫のフランス王ルイ七世と共に十字軍に参加したが、そのときルイ七世が幾万もの騎士を従えていたのに対し、エレオノールは多くの吟遊詩人を連れていた。

彼女の愛する吟遊詩人とその芸術がドーバー海峡を渡ったのは、彼女が伯父のレイモンやサラセン人の奴隷と浮名を流した華々しい十字軍遠征から帰国した後、ルイ七世との教会離婚を成し遂げてブランタジネット家のヘンリーと結婚し、そのヘンリーがイングランド王ヘンリー二世となった御代のことだった。

彼女のこうした公私にわたる欧州文芸への貢献は、やがて多くの貴婦人達の心に宮廷風恋愛への憧憬という果実を結んだ。それは野蛮で封建的な騎士の妻という立場に甘んじ、これに憤慨していた彼女達の必然の声だった。それが吟遊詩人により各地へ伝えられると、夫達の作法は洗練され、彼女達の地位は著しく向上した。

宮廷風恋愛とは騎士と彼が選んだ貴婦人との恋愛を賛美したもので、この場合の貴婦人とは妻以外の女性を意味した。その掟は恋人達が戯れあう形式ばった庭園のように念の入ったもので、それによると浪漫的な騎士は陽気で、熱烈で、秘めごとを洩らさず、慇懃でなければならなかった。

そしてリヒテンシュタインの騎士ウルリッヒが意中の貴婦人と言葉を交わすまでに十年間も求愛し続けたように、貴婦人がどれほど長く好意を見せなくとも、彼は落胆することなく求愛しなくてはならなかった。そのような彼女達の手鏡の裏には大概、愛の天使が矢を放って地上の男を仕留める様子が象牙に彫られていた。

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by hishikai | 2008-12-05 13:22 | 文化
2008年 12月 02日
心はわが心より
e0130549_1231208.jpgさむしろや 待つ夜の秋の風ふけて 月をかたしく宇治の橋姫

藤原定家二十九才の作。この歌は「さむしろに 衣かたしき今宵もや 我を待つらん宇治の橋姫」を本歌として歌の物語性を本歌に預け、この歌自身は「風・ふけて」「月を・かたしく」と現実にはあり得ない結びつきを持たせた詞を意識的に織り併せることで、錯綜する印象の構成体として享受者に提示されている。

こうした定家の創作意識は父である藤原俊成の、現実は歌に詠まれることで始めて美しさを与えられる、と主張する歌論に支えられながらも、更にこの詞への認識論的な仮構性を極限まで押し広げることで、仮構が仮構を創出する「心はわが心より思いよれる」(千五百番歌合)という純粋虚構世界への指向に拠っている。

当時からこの創作意識に対して、作品は詠者の境遇や作歌事情を離れるべきではないとする後鳥羽院からの批判もあったが、それは定家の先鋭的な歌が宮廷歌の役割を果たし得ないという程度のことで、純粋虚構世界への指向それ自体は紀貫之の「心あまりて詞たらず」以来貫かれている国風美意識の正統に属する感覚であろう。

これは三島由紀夫の「能や歌舞伎に発する芸能の型の重視は、伝承のための手がかりをはじめから用意しているが、その手がかり自体が、自由な創造主体を刺戟するフォルムなのである。フォルムがフォルムを呼び、フォルムが絶えず自由を喚起するのが、日本芸能の特色」(文化防衛論)との見解にも受継がれている。

だがこの点は近代意識が日本文化に言及した場合に見落としがちなところで、例えば小林秀雄が『金閣寺』への感想として「なんでもかんでも、君の頭から発明しようとしたもんでしょ。(中略)その小説で何にも書けていないし、実在感というようなものがちっともない」と述べた辺りにも垣間見られる。

そして橋川文三も「書くべきものがないのに小説を書いているという事態は実在感なしにイメージを作り上げるという事態と等価である」(三島由紀夫の生と死)と述べていて、これら両者の三島由紀夫への批判がそのまま藤原定家への批判となり得るところに近代が歴史を自らに引き寄せて解釈する誤認がある。

その意味で三島由紀夫が「五十になったら定家を書こうと思います」(焔の幻影─回想三島由紀夫)と言った時、彼の心にどのような解答が用意されていたのか、それが今となっては詮無きことであっても興味深い。

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by hishikai | 2008-12-02 12:48 | 文化