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2009年 01月 31日
永井荷風『日和下駄』より
e0130549_23036100.jpg私は今近世の社会問題からは全く隔離して仮に単独な絵画的詩興の上からのみかかる貧しい町の光景を見る時、東京の貧民窟には竜動(ロンドン)や紐育(ニューヨーク)において見るがごとき西洋の貧民窟に比較して、同じ悲惨の中にもどことなく云うべからざる静寂の気が潜んでいるように思われる。

もっとも深川小名木川から猿江あたりの工場町は、工場の建築と無数の煙筒から吐く煤煙と絶間なき機械の震動とによりて、やや西洋風なる余裕なき悲惨なる光景を呈し来ったが、今しからざる他の場所の貧しい町を窺うに、場末の路地や裏長屋には仏教的迷信を背景にして江戸時代から伝襲し来ったそのままなる日陰の生活がある。

怠惰にして無責任なる愚民の疲労せる物哀れな忍従の生活がある。近来一部の政治家と新聞記者とは各自党派の勢力を張らんがために、これ等の裏長屋にまで人権問題の福音を強いようと急り立っている。さればやがて数年の後には法華の団扇太鼓や百万遍の声全くやみ路地裏の水道共用栓の周囲からは人権問題と労働問題のかしましい演説が聞かれるに違いない。

しかし幸か不幸かいまだ全く文明化せられざる今日においてはかかる裏長屋の路地内には時として巫女が梓弓の歌も聞かれる。清元も聞かれる。盂蘭盆の燈籠やはかない迎火の烟も見られる。

彼らが江戸の専制時代から遺伝し来ったかくのごときはかない裏淋しい諦めの精神修養が漸次新時代の教育その他のために消滅し、いたずらに覚醒と反抗の新空気に触れるに至ったならば、私はその時こそ真に下層社会の悲惨な生活が開始せられるのだ。そして政治家と新聞記者とが十分に私欲を満たす時が来るのだと信じている。(日和下駄/永井荷風)※筑摩書房版より引用、新仮名使い。

大正三年に発表された『日和下駄』は、永井荷風による東京市中の景観に対する批評文であるが、また同時に人間と社会に対する彼自身の思想表明ともなっている。そして、その思想はここより二十余年の後、今度は小説という形で再び表明されることとなる。それが、あの『墨東綺譚』である。

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by hishikai | 2009-01-31 20:31 | 文学
2009年 01月 29日
e0130549_017517.jpgこんな夢を見た。夜、私は家の階段を降りている。辺りは青暗く、ぼんやりとした光で満ちている。その見えるか見えないかの暗さの中を、私は一段一段、足許に気遣いながら降りている。やがて階段の下に廊下が見える。正面は突き当りになって、右に便所があり、廊下は左へと続いている。

私はようやく階段を降り切ると、左にゆっくりと向きなおる。廊下が真直ぐに延びて、両側に部屋がある。手前から右側に風呂、その次が台所。左側に茶の間、その次が洋間になっている。全てがぴったりと戸を閉切って、時が止まったように佇んでいる。微かに私の左手、茶の間の障子が青暗い光に白んでいる。

廊下を眼で追っていくと、正面に玄関があり、扉に摺硝子が嵌込んである。そこがまた一層青暗く、あたかも空気それ自体が発光しているように、ぼんやりと光っている。私は不思議に思い、玄関をじっと見詰めている。玄関にも廊下にも、青暗い光は僅かな発光の差を呈しながら一面に満ちている。物音一つしない。

突然、私の左手にある茶の間の障子がすっと開いて女が出てくる。年は十六か十七か。髪をおかっぱに切り揃え、戦時中のもんぺ姿をしている。子供を布に巻いて抱いている。子供は布から顔だけを出して、眠ったように目を瞑っている。子供の顔の横には、女の左胸に縫付けられた白い名札が見える。

女は私の前に立つと、伏し目がちに下を向いたまま、子供の顔をじっと見ている。女の顔も、子供の顔も、青白い。親子か、姉弟か、判らない。どのぐらいの間、そうして居ただろう。やがて女は背を向け、廊下を滑るように玄関の方へ行くと、そこで一面の青暗い光に溶込むように姿を消した。

私は立ちすくんでいた。そして女が背を向けて遠ざかっていくときに、その周囲を真黒で細かい、闇の破片とでも言うべきものが、無数に取り囲んでいたことと、女が出てきた茶の間の障子の、すぐ近いところに、明治天皇と昭憲皇后様の御真影が奉ってあったことを、心の中で、なぜか頻りに気にしていた。

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by hishikai | 2009-01-29 00:22 | 日常
2009年 01月 27日
休日の散策
e0130549_1519140.jpg有楽町に着いたのは昼の十一時を過ぎた頃だった。裏通りをぶらぶらと歩いていたら、高架下の薄暗がりに紅い電燈をぼんやりと光らせた居酒屋があった。入って、麦焼酎のお湯割りを三杯、おでんに芥子を多く塗ったのを肴にして飲んだ。涙が出た。

店を出て、暗い裏通りから明るい表通りの方角を見ると、視界を縦に三分割して左右の両側を差し迫った黒い雑居ビルのシルエットが覆い、中央の一分割の向う側に有楽町マリオンの白い姿が眩しく見えた。その入口の上には、映画「チェ28歳の革命」の看板が、雑多な色彩を集めて架かっていた。

国家の規模と、その運命に大小はない。そういう本能でゲバラと日本人とは地続きになっている。後発国の近代は、思想の左右を問うことなく、常に追詰められた本能を懐胎している。かつて芥川龍之介が「君は僕等の東洋が生んだ 草花の匂のする電気機関車だ」とレーニンを書いたことにも、それは宿っている。

あるいは欧州で過渡的な折衷だった立憲君主制が、大日本帝国憲法で国体という絶対を抱き、また英米で相対的な統治制度だった民主主義が、戦後憲法で平和主義という絶対を抱く。このように我国では、常に欧米の原作と異なる切迫した観念が模索され、それが中心教義に据えられるのは、やはり圧せられる側の本能に因るのか。

映画を観た後、そんなことを思いながら銀座の雑踏の中を歩いた。ビールが飲みたくなったので、ライオンビアホールへ行くことにした。入って、ギネス1パイントを四杯、塩えんどう豆を肴にして飲んだ。いつもなら、隣は火消半纏の粋なご老人連の常席だが、今日はいらっしゃらないようだった。

そうしているうちに、魚介を食べたくなったので、ビアホールを出て新橋に向けて歩いた。途中、豊岩稲荷にお参りをして、金春通りから新橋駅を越えて烏森に至った。知っている店がないので、大体の見当で暖簾をくぐった。入って、高知の酔鯨を五杯、貝の刺身を肴にして飲んだ。そこで、記憶が終わった。

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by hishikai | 2009-01-27 15:53 | 日常
2009年 01月 25日
mishima
e0130549_9245945.jpg友人が映画の入ったDVDを一枚呉れた。ケースに「mishima」とある。説明は全て英文で、a film by Paul Schrader、starring Ken Ogataの文字が見える。1985年制作であるらしい。ケースのデザインは黒が基調で、ざっと謂えば、ゲイシャ、フジヤマ、トーキョーローズといった気分。

早速、帰宅して鑑賞。三島由紀夫の伝記映画だった。色々と言えば、色々とあるかも知れないが、総じて巧く出来ている。映画『憂国』のロケ風景、『学生とのティーチ・イン』など、アングルから小道具に至るまで、実に良く調べ、実に良く再現している。

あるいは、紅燈万点とする歌舞伎座のロビーに、着物姿の人々が往き交う。制服に身を包んだ盾の会が、国立劇場の屋上を行進する。白いコロナが日本の街並を、首都高速を疾駆する。これらは出来得る限り、実際の場所を使用した撮影となっている。少なくも、私にはそう見える。三島邸も本物ではあるまいか。

また、自衛隊市ヶ谷駐屯地での総監拘束から演説への過程、その中にある自衛隊との構図も理解しやすい。一号館バルコニーの上から天皇陛下万歳を奉唱する三島由紀夫と森田必勝。下から野次る自衛隊諸官。あの光景が旧軍と自衛隊の、戦前と戦後の、怨念と諦念の、過去と現在の対決であることが判る。

演技者は『金閣寺』の主人公を演じた坂東八十助が秀逸。黒い学生服の足許をゲートルで編み、坊主頭に学帽を冠っている。吃るために、首を傾げ、身を捩って、言葉を発しようとする。それが不思議に美しい。昔、マヤの貴族が帽子の目の前の片方に錘を吊るし、自らを斜視にした、その美しさを想い起す。

少し難点も言わねばならない。主演の緒方拳は、三島由紀夫に較べて四肢が短く、歩き方も農民式で悠々としない。だから彼は三島由紀夫の「仮面」ではなく、その内面を演じなければならないし、事実そうしている。だがそれでは、三島由紀夫自身が、実のところ「仮面」であったことは伝わらないと思う。

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by hishikai | 2009-01-25 09:28 | 文化
2009年 01月 22日
日本酒徒然
e0130549_2242176.jpgかなり最近まで私は日本酒一辺倒だった。どんなに暑い日でも、熱カンに限ると固く信じていた。夏の夕方、縁側に小さな飯台を出し、だんだん暗くなって行く庭を眺めながら、サルマタ一枚でぬれ手拭いを肩にかけ、汗をふきふき熱い日本酒を飲むのは、もっとも好むところだった。(洋酒転向由来/古谷綱正)

日本酒党はそもそも執念深い人々で、生ビールや酎ハイで盛上がる酒場でも、独りカウンターに黙然と肘を衝き、ふちの紅くなった眼で虚空をじっと睨み据えながら、紅旗征戎非吾事といった風情で唯ひたすらに飲んでいる。ああいうのは飽きないのかなとも思うが、本人にとっては堪えられない極楽らしい。

或いは猪口で飲むから口を迎えに遣る。或いは酒が喉を通過した後にチッと舌を鳴らして、ウーッと低く唸る。ああいったこと一体が、うらびれて映る。周りの人々が丈の高いグラスを口に運ぶために背筋が伸びている中では尚さらで、隣に居合わせる私までが切ない気分になる。

序ながら日本酒の味覚にも戸惑う。と、いうよりも味の伝わり方が釈然としない。口に含み、舌に乗せた刹那、味の感知までに一瞬「間」があるような気がする。あれが判らない。例えばワインやウィスキーは、舌に乗せた瞬間にパッと最初のシグナルが来るが、日本酒のシグナルは一拍遅れる。

こういったことは音楽もそうで、例えば「東京音頭」という曲がある。あれはイントロが、チャチャラカチャンチャカときて、一旦、四分休符が入ってから「踊りお〜どるなぁ〜ら」となる。つまりイントロの後「(ウン)踊りお〜どるなぁ〜ら」と歌い出すのだ。あれが判らない。私はどうしても(ウン)を待てない。

これは「炭坑節」も然り。多分その他の音頭や民謡にも多いと思う。小唄でも最初に三味線の棹を軽く叩いてから始める曲がある。こうしたように最初をふわっと抜いてから動作を始めるのが、日本人の好みに合う。日本酒もその延長線上にあり、私もこれを理解したいのだが、今からでは遅いのかも知れない。

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by hishikai | 2009-01-22 02:41 | 日常
2009年 01月 20日
古代ローマ的なるもの
e0130549_18541586.jpg明治二十一年、伊藤博文が帝国憲法の制定に先立ち「我国の機軸は何なりや」と言ったとき、伊藤公の脳裏には国家と法の権威を何処に求めるかという問題があった。そして自ら見聞した欧州諸国に倣って言葉を続けた。「宗教なる者ありて之が機軸を為し、深く人心に浸潤して人心之に帰一せり」

欧州はローマ法を継承し、教会に権威を求めた。この場合のローマ法は529年にビザンティンで完成したユスティニアヌス法典を指す。そしてビザンティンがキリスト教国家であったことを考えれば、伊藤公が脳裏に描いた権威と宗教のセットは、ビザンティンから欧州へ受継がれたものと言ってよい。

だがアメリカは違う。アメリカはビザンティンから欧州という潮流の外にあり、国家と法の権威を宗教に求めることはない。アメリカは古代ローマをモデルとして建国され、その理念は現実的で保守的である。この点につきH・アレントは次のように指摘している。

アメリカ人が憲法に自らを結びつけた力は、啓示された神に対するキリスト教的信仰でもなければ、同じように宇宙の立法者である創造者へのヘブライ的服従でもなかった。革命と憲法に対する彼らの態度が幾分でも宗教的と呼べるとすれば「宗教」という言葉を、そのオリジナルなローマ的意味で理解しなければならない。(革命について/H・アレント)

ローマ的意味の宗教とは、古代ローマの人々の常に先祖の起源に回帰しようとする精神を指す。したがって彼らは「建国の精神」が後継者の絶えざる流れの中で受継がれてゆくことが、国家と法に権威をもたらすと考えた。これをM・ハダスは次のように言う。

ある意味ではローマの真の宗教、ローマの崇拝する究極の対象、ローマの理念を具象化したものは、結局のところ、ローマそのものであったといえよう。(ローマ帝国/M・ハダス)

これは現在のアメリカも全く同じと考えてよい。ある意味ではアメリカの真の宗教、アメリカの崇拝する究極の対象、アメリカの理念を具象化したものは、結局のところ、アメリカそのものである。

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by hishikai | 2009-01-20 19:30 | 憲法・政治哲学
2009年 01月 16日
成人病としての演歌
e0130549_2205935.jpgNは弁当屋の大将。今、彼は一日の商売を終え、近所にあるこのモツ焼き屋のカウンターで私と肘を並べてウイスキーハイボールを飲んでいる。頭に白いタオルを巻き、青いジャンパーを羽織っている。もう夜の十時を過ぎて、客は私達の他にはいない。通りを往く人も少なく、一月の冷たい風が暖簾を揺らしている。

「俺さぁ、最近、演歌、好いと思うんだよね」「⋯⋯⋯」

Nは根っからのロックファンで、LP盤も随分と持っている。先だっても部屋にお邪魔して彼のコレクションを拝聴したばかりだ。酔って興が乗ればF・マーキュリーを真似て周囲を楽しませてくれるし、さらに酔えば往来でエアギターをやる。その彼が演歌が好いと言う。が、これは彼に限ったことではない。

私の中学校以来の旧友、Sもその一人。ソウルのコレクターで、ギターを巧みに弾く。それがどうしたことか、鳥羽一郎のファンになった。そしてもう一人、KはSの後輩。やはりギターを巧みに弾く。複雑なコードも熟知する。が、彼もやはり鳥羽一郎のファンになった。彼らは互いを一郎、二郎と呼び交す。

こういうことは、一種の精神的、文化的な成人病であろうと私は思う。男も四十を過ぎれば、身なりも髪型もすっかりおじさんになる。自分は若いつもりでも、知らず知らずのうちに萎えた気分が染込む。カウンターに肘をつき、背中を丸めて酒を飲む。そこへ有線放送から演歌が流れる。あゝいいなぁ、となる。

演歌は日本人の心と言うが賛成し難い。芸能史に詳しいわけではないが、おそらく演歌は川上音二郎の「オッペケペー節」以来の芸能で、浪曲と共に近代的な来歴を持つ。真に日本人の心を聴くのであれば、中世の琵琶平曲や能の謡、近世の地唄や清元に止めを射す。

と、考える間に数秒が経過した。Nはまだこちらを見ている。(仕方ない⋯)私はウイスキーハイボールを一口飲んで、こう答えた。

「それなら、俺の『前川清ベスト25』貸そうか、結構いいよ」

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by hishikai | 2009-01-16 03:07 | 文化
2009年 01月 14日
過去との再会
e0130549_1412356.jpg富迫君は父親がなく、母親と二人暮しだった。ゆとりのない暮らしとみえて、身なりもみすぼらしかった。父は富迫君を可愛がった。身勝手な人間で、自分の仕事関係の客は無理をしてでももてなすが、子供の友達などうるさがった人だが、富迫君だけは別だった。

父は、父親を知らない自分を、親戚から村八分にあいながら、母親の賃仕事で大きくなった惨めな自分の少年時代を彼の上に重ねて見ていたのだろう。汗ばむ季節だったから、初夏だったのか夏の終わりだったのか。日曜日の一日を父は私と弟を連れて吹上浜というところで遊んだ。富迫君も一緒だった。(中略)

それからしばらくして、弟は学校から帰るとランドセルを母に渡しながら、「富迫君のお母さんが死んだよ」といった。その夜、父にいわれて、私と弟は祖母に連れられてお悔やみにいった。富迫君のうちは、ゴミゴミした路地の更に奥にあり、ぬかった道に板が渡してあった。(ねずみ花火/向田邦子)

私の知人に、少年のとき両親と死に別れ、兄弟もなく、親戚の家を転々としながら、やがて就職し一人暮らしをしていた人があり、彼が結婚する当日、花嫁の家では赤飯を炊き、着付けをなおし、家人が忙しく立ち働いていた最中、花嫁がふと、彼は今頃一人で仕度をしているのかしらと呟いたとき、花嫁の父は泣いたという。

花嫁の父は、母一人の境涯から苦学して世に出た人で、以前にご本人の育った場所を、私と共に、久しぶりに訪れたとき、その夏草の生茂る空地に立って、かつて両脇の長屋の真ん中に井戸があり、そこで母は市場で買った安価な貝ひもを洗い、甘辛く煮て、よく私共に食べさせて呉れましたと、蝉時雨の中で話されていた。

ドラマ『父の詫び状』では、父が祭壇の横にポツンと座る富迫君に「偉い人になるんだぞ」と搾り出すように声をかける。偉い人。近頃は絶えて久しい。幼い色彩の全てを諦めて過去から抜け出してきた人の、思わず過去と再会した時に見せる深い陰影は、それまでの色彩の全てを宿して、人生を斜めに区切っている。

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by hishikai | 2009-01-14 14:04 | 日常
2009年 01月 12日
しづ心なく花の散るらむ
e0130549_1284141.jpg映画『奇跡の人』で、ヘレン・ケラーは流れる水に触れながら「water」と言う。そのとき彼女は、温度や勢いに違いがあっても、今触れているものと、これまで触れてきたものとが一つの「まとまり」であること、そこに「water」という名称が与えられていることを知る。

同じように梅や桜は一まとまりに花と呼ばれ、雀や鶴は一まとまりに鳥と呼ばれる。私達はこのように世界をまとまりの集合として認識し、各々のまとまりに名称を与えて理解する。換言すれば私達の世界は、私達が仮設したまとまりの集合体に過ぎない。花も鳥も単なるまとまりであって「それ自体」では存在しない。

この名称を与えられたまとまりが概念だが、私達は何事かを他者に伝えたいとき、その概念を一定の組合せに編成して記号化する。記号の組合せである文が所定の方式である文法に則って綴られるとき、受信者はこれを解読し自らの心中に概念を再編成して相手の意図を理解する。

この編成された概念が「理(ことはり)」で、人は何事かを論じ、伝えるとき、それを「理」に置き換えて操作する。だが古来より日本人はこの方法に限界があると考えてきた。確かに精密な「理」を操作すれば、人は世界を精密に把握することができる。だが概念が「それ自体」では存在しないことに変わりはない。

一方で私達が桜の散る光景に出逢ったときに受ける「感じ」は紛れもなく存在する。その「感じ」はどんなに精密に概念を編成しても伝えることはできない。この「感じ」が「こころ」である。だが私達は他者への伝達を上述の如く概念の編成によって行う他に方法を知らない。そこで日本人は「こころ」を「うた」で伝えた。

「久方の 光のどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ」と聞けば、私達はうららかとも、もの悲しいともつかないある感じ、すなわち作者の「こころ」を了解する。そのようにして私達は、遠くは国の始めから、近くは先の大戦まで、星の数とも知れぬほど世に送り出されてきた先人達の「こころ」を受取ってきた。

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by hishikai | 2009-01-12 12:19 | 文化
2009年 01月 10日
ビンタ
e0130549_1932695.jpg昔の先生はよくビンタをした。当時は親が掛合いに来ることもなく、生徒にしてもいけないことをすればビンタが飛んで来るのは当然だと思っていた。問題はそれが反省へと繋がるかどうかだが、私の場合、そこがいまひとつ繋がらなかったらしい。私の中学校生活の思い出は、いつもビンタと一緒にある。

あれは中学一年の寒い冬の夕方だった。私は級友と二人で放課後の教室に残り喋っていた。寒いので紙屑を丸めて燃やし、机の上で焚き火をしていた。すると突然教室のドアが開いて英語の鳥海先生が入ってこられ、机の上の火を叩き消すと、その振り向きざまで私に十連発のビンタを下された。

あれは中学二年の暖かい春の朝だった。私が遅刻をして校門の手前まで来ると、技術の佐々木先生が立っていた。まだ私のことに気付かれていない様子だった。私は咄嗟に隣の聾唖学校のグランドに飛び込み、姿勢を屈めて走り出した。そのグランドは我が校のグランドに金網一枚で隣接し、一段低くなっていたのだ。

姿勢を屈めて走る私の鼻先を萌えだした若草のよい匂いが通り過ぎた。聾唖学校のグランドの端まで来ると、そこは校舎に遮られて校門からは見えなくなっている。私がそこから我が校に戻ろうとして顔を上げると、金網の向こうに佐々木先生が腕組みをして立っていた。後は足腰が立たなくなるまでビンタをして下さった。

あれは中学三年の夏休みに入る前の日だった。その日は午後から全校をあげての大掃除だった。そのとき私は級友たち数人とグランドでサッカーをしていた。私は海水パンツに運動靴で、首にタオルを巻いていた。ふと見るとグランドの端に美術の長房先生が立っていた。「よおし、全員ここへ来て列べ」

私達が整列を終えると先生は、目をつぶれと仰った。私達の中でも気の弱い西田君が「先生、それは勘弁して下さい」と言ったが早いか「ふざけるな!馬鹿者!」の怒声と共に西田君がぶっ倒れた。後は端から順番だった。中でも私は海水パンツ一丁だったので鄭重なビンタを頂いたと思うが、その後の記憶がない。

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by hishikai | 2009-01-10 19:37 | 日常