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2009年 01月 08日
調停読本
e0130549_0101346.jpg私の手許に『調停読本』という本がある。発行日は昭和二十九年十月一日、発行者は日本調停協会連合会。編輯は最高裁判所事務総局が賛助。表紙は濃緑色の布製。川島武宜著『日本人の法意識』によれば「長い間、多くの調停委員にとって一種の公定教科書的な役割をはたした」本であるとのこと。以下に興味深い点を抜粋する。

《調停の本質》〈一、民事訴訟の裁判は、法律のわくにしばられます〉「(裁判による解決は)具体的妥当性に欠けるおそれがないでもないのであります」〈二、訴訟は日時と費用を要します〉「『訴訟ざた、勝つも負けるも損のもと』とか『よくばって、訴訟となってとも倒れ』とかいわれるのも、このことであります」

《調停委員となるべき者》「何よりもまず徳望良識のある者でなければなりません。誠に、『篤行の人にまかすは世のならい』であり、『徳望は調停の武器なり力なり』というべきであります。そして、『当事者に信頼感を与えつつ』『険悪な空気も和むお人柄』というような人物こそ、調停委員に選任すべきでありましょう」

《当事者の陳述》「いいたいことをいわしてもらえないことは、当事者にとってまことに苦痛でありますから、『つまらないことも謙虚に聞いてやり』、『へ理屈もいうだけ一応聞いてやる』というように『ともかくも底の底まで聞いてから』調停するという心構えが必要です」

《調停の成立》「調停手続は、これを目的として進められるもので、『それぞれにつくす誠が実を結び』、『ゆとりある調停案に歩みより』そして結局『すみません御苦労様とわらいがお』で『双方の納得できる名調停』が成立するならば、関係者は『生き甲斐を成立に知る帰りみち』ということになりましょう」

《調停いろはかるた》い「いろいろの もめごとはまず 調停へ」ろ「論よりは 義理と人情の 話し合い」は「話し合い 相手に五分の 利を譲り」に「人情の 機微に触れつつ 手際よく」ほ「本訴より 手がるで安い 話し合い」へ「平和なる 家庭にもどす 家事調停」(以下略)⋯。

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by hishikai | 2009-01-08 00:18 | 憲法・政治哲学
2009年 01月 06日
詠み人知らず
e0130549_15433257.jpg詠み人知らずの歌というと、例えば『梁塵秘抄』にある「わが子は二十になりぬらん 博打してこそ歩くなり 国々の博党に さすがに子なれば憎かなし 負かい給うな 王子の住吉 西の宮」が思い浮かぶ。宮廷歌人に遠く及ばぬ技巧ながら、それと同じくらい宮廷歌人の遠く及ばぬ率直さで詠われている。

どんな人かと想像して、きっと私達と同じく日々の生活に追われながら、手のすいた時には遠く空を見上げて家族を心配する、どこにでもいる人であったろうと思う。してみると私達の父母はみな口には出さずとも、各々が無名の詠み手であったのかも知れない。そう考えていたら『昭和精神史』の次の一節が思い出された。

昭和十九年七月、サイパン島の守備隊と住民が玉砕した頃のある日、伊東静雄は戦死者の遺骨を迎える行列に出逢う。群衆の中に四十代ぐらいの男がいて、遺骨に最敬礼した後で、何ごとか朗々と詠い始める。「富士、清き流れ、もののふ、桜の散るがごとく、神武天皇様、靖国の社」といった語句が聞こえる。

男は語句を少しづつ違えて二度詠う。即興の朗詠であろう。縞のワイシャツに半パンツ、地下足袋ばき、戦闘帽を被っている。顔色は日に焼けて屋外労働者らしい。周りの人々は薄笑いを浮かべ、あるいは不思議そうに見つめるが、男はそれらには無関心で、謹直と敬虔そのものの態度で立っている。(昭和精神史/桶谷秀昭)

この男が何に向かって朗詠をしたかということを随分と考えて説明しようと試みたが、いざ言葉にして並べると、こしらえごとでしかないような気がしたので、やめることにした。ただ詠み人知らずの歌が生まれる瞬間を書き出したかった。

昨日「せいろん談話室」が閉鎖になった。最後に銘々が思いの丈を書けということで、私も幾度か投稿したこともあって、何か書こうと思ったが結局のところ何も書かなかった。ただ私の投稿は論考ではなく、いつもひどく稚拙な詠み人知らずの歌であったように思えたので、思い付くことを此処に書いてみた。

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by hishikai | 2009-01-06 15:56 | 日常
2009年 01月 04日
人間宣言
e0130549_13203627.jpg朕ト爾等國民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、單ナル神話ト傳説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本國民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニ非ズ。(年頭、國運振興の詔書/昭和二十一年一月一日)

今日の風潮からいえば、天皇が人間であるか否かを問うことは狂気に等しいのかも知れない。しかしこの詔書、いわゆる「人間宣言」が渙発された当時は、少なからぬ驚きが日本人の心にあったようだ。中野重治は「あらゆる偽ものも、天皇ほどのづうづうしさをみせたものは一人もいない」と『アカハタ』に書いた。

また橋川文三は「この宣言が引きおこしたある名状しがたい衝撃の記憶は、私自身の内部に今もなお明らかに残っているばかりか、それにともなって生じた日本人の生命そのものの意味の転生についても、私はいくつかの忘れえない事例を知っている」と『中間者の眼』に書いた。

「現御神」はCIE(総指令部民間情報局)による原文では「divine」、これを邦訳した詔書原案では「神の裔」とある。これが「現御神」と訂された経緯には木下道雄侍従次長の介入があり、それは天皇が「生き神」であることを否定しながら、同時に紀記神話との連続性を確保しようとしたかのようだ。

ともかくも日本人に示されたのが『年頭、國運振興の詔書』であったことに変わりはない。そして、これを一個の数式として戦前と戦後の間に置いてみるならば、右辺と左辺の関係に明らかな矛盾がある。これまではここを、当時の新聞は概ね歓迎の論調であったとか、象徴天皇制こそ本来の姿だなどと言って切り抜けてきた。

だがそうしたことは、玉砕という「高貴な事柄」が敵に理解されない事を天下の不思議と考えた戦中の発想と表裏ではないのか。それは時節に迎合するあまりに、自己の感情を通して見た現実を普遍的な事実と見てしまうことに他ならないのではないか。

多くの人々の尊い血で書き綴られた日本近代史を俯瞰してみるならば、三島由紀夫が『英霊の聲』に書いたように「人間宣言」は、それら死者達への裏切りだという見方が、最も率直に事実を言い当てているのではないか。

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by hishikai | 2009-01-04 13:44 | 大東亜戦争
2009年 01月 02日
「みたま」を迎える日
e0130549_1363687.jpg酒田市から北西に約40kmの海を隔てて飛島がある。この島の里から岡を越えて西へ向かう小径の先に賽の川原があり、何人が積むとも知れない石の塔が幾つもある。言い伝えによると、この近くの山で草を刈っていると、佳い声で唄を口ずさみながら通って行くのを聴くことがあり、そういう時にはきっと村で誰か死んでいる。

あるいはこの小径の脇に住む老人が、夜更けに何か独り言を呟きながら登って行く声を聴くことがある。あゝまた誰か死んだなと思うと、翌日には村から葬式が出る。時には啜り泣きをして行くのもあれば、はァとただ一つ溜息が聴こえたり、そうかと思うと気楽そうに鼻唄で登って行く女もあるという。

これは昭和二十年、柳田国男によって書かれた『先祖の話』に記された言い伝えなので、現在のことではない。島の墓所は他にあるのだろうから、賽の川原は幽界への入口であろうか。ともかくも、こうして幽界へ逝った人々は「みたま」となり、御先祖様となり、村の祭事には再び帰って懐かしい人々と暮す。

正月と盆は、曾てそのような先祖祭であったと柳田国男は言う。徒然草には晦日を「亡き人の来る夜とて」とあり、元旦に先立って魂祭のあったことを証している。これが十万億土の彼方より帰り来るとか、地獄の釜が開くなどと言い習わしてから、死者を何か穢れたものとして、正月より切り離してしまったのではないか。

だが私達の先祖の霊は子孫が年々の祭祀を行う限り、永くこの国土にあって時を定めて故郷の家に往来した。そして日頃には清らかな山の高みにあり、春の始めには里に降って田のものの生育を助けると信じたのだ。その時人々は極楽を他所に持ってはいなかった。どこまでも故郷を愛したのだった。

─新年の詞─ 当ブログを御覧の皆様、新年明けましておめでとうございます。昨年は年末の記事に御礼も書かず、また新年は元旦のアップもせずにおりましたこと、ひとえに私の怠惰の故と恥入る次第です。当ブログは今年も更なる内容の充実を目指す所存ですので、何卒引続きの御高覧をお願い申し上げます。

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by hishikai | 2009-01-02 01:56 | 文化