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2009年 03月 29日
保田與重郎『やぽん・まるち』(要約)
e0130549_2193759.jpg今年の春、私は珍しい古典の演奏会に招待せられた。その会の出入者は殆ど旧幕の子孫といった人々で、実に私は異常に回顧的なむしろ神秘的な感興をその集まりのさ中に禁じ得なかった。そして演奏された大多数が旧幕の時代の作品だという中で私は「やぽん・まるち」というのを最も深く感興を以て聞いたのだった。

あれを文字に写し得ない。大体が行進曲であろうと思われるのに、その曲節はある時は心持の深みへおち込み、むしろ呼吸をこらさせる様に、恐ろしい精神の苦闘をまざまざと見せつけて進んだ。以来その曲が心の不安となっていた私は、ふと『辺境捜綺録』という独逸人の見聞記に「やぽん・まるち」の記事を発見した。

「やぽん・まるち」の作者は日本の幕府の武士であったらしい。下層武士の例にもれず、彼も算数習墨の教授を表の内職として、内では皷の稽古をつけていたそうである。丁度当時幕府に参上した使節に一人の仏蘭西人があり、この幕吏はこの仏蘭西人を友に得た。二人は互いに異国の楽器を奏しあったりした。

そして日本の武士は西洋の音楽に刺戟されて、いつか自国の芸術に新しい分野を開こうと烈しい情熱で誓うのだった。それから幕吏は深更でも疑問が浮ぶと必ず品川の異人館まで二里の道を歩いていった。時にはあかつきの白々と明けようとすることさえあった。いつか彼は皷による一曲の「まるち」を作りあげた。

だが彼は完成ということを知らなかった。作品の生命を固定させることが出来ない。彼は皷に向かっているきりである。やがて京都の軍勢は三道から殺到してきた。仏国人は彼を南欧の故国に誘ったが、彼は黙然と聞いていた。仏蘭西人問うて曰く、君の心、日本武士の気持たるか、と。日本の武士笑いて答うるに、我は芸術を破り、心を破らん。ついに肉体まづ破るべきものなるか、と。

江戸の戦いは敗兵を上野に集めていた。その陣中のどこからか日夜をわけずに小皷の響わたるのがきこえた。まがいもなくかの幕吏であった。だが山中籠城は数日を耐え得なかった。寛永寺の宮が奥羽に落ちるとき「風流な者がいます」と語られたのを、隊長天野は空虚に「ハッ」と答えるだけだった。

上野のあっけない陥落は昼頃だった。あい変らず衷心して鼓をうちつづけていた「まるち」の作者は自分の周囲を殺到してゆく無数の人馬の声と足音を夢心地の中で感じた。しかし彼は夢中でなおも「やぽん・まるち」の曲を陰々惻々と、街も山内も、全てを覆う人馬の声や、鉄砲の音よりも強い音階で奏しつづけていた。彼にとって、それは薩摩側の勝ち衿った鬨の声よりも高くとうとうと上野の山を流れてゆく様に思われていた。ついに「やぽん・まるち」の作曲者名は判明しない。

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by hishikai | 2009-03-29 02:26 | 資料
2009年 03月 25日
一高の野球
e0130549_191198.jpg明治五年(1872)のある日、開校して間もない第一大学区第一番中学の校庭に一人のアメリカ人教師が立った。手にはバットとボールを握っている。彼は生徒達に一声合図を掛けたかと思うと、ボールを空中に放り投げ、バットで打った。彼の名はホーレス・ウィルソン。我国にベースボールを伝えた最初の一人となった。

やがて第一番中学は東京開成学校から東京帝国大学へと名称を改めたが、ベースボールはその予備門である第一高等学校、いわゆる一高へと受継がれた。寮の前庭は朝夕のノック場、土手下はキャッチボール場、グラウンドは昼食後のノック場と試合場になった。終日、一高に球音の絶えることはなかった。

明治二十三年(1890)五月二日。一高と明治学院の試合中に、一高の応援団が明治学院の教師W・インブリーに暴力を加える不祥事「インブリー事件」が発生した。一高はこれを重く受止めた。彼らは自らの実力不足が原因であると考えたのだ。そして名誉挽回のため、悲壮なまでに激しくストイックな練習を積んだ。

明治二十七年(1894)その名称も「一高ベースボール会」から「野球部」と改め、すでに国内に敵なしの状態だった一高野球部は、明治二十九年(1896)五月二十三日、遂に横浜外人アマチュアクラブの美しい芝生のグラウンドに立った。初回に先制を許し、隠し球の洗礼も受けたが、敢然と攻めてこれを29対4で破った。

この試合を報道した『The Gazette』は書いた。「学生軍は我がアメリカ人居住者に、アメリカの国技であるこのゲームは、このようにやるのだということを示してくれた」と。やがて時代は移り、早慶戦華やかなりし時に早稲田大学監督を努めた飛田穂洲は、当時の一高野球を想い起こして、次のように述べた。

「一高の野球は全く精神を基調としたものであり、心の洗練を主にして行われた野球であった。(中略)この武士道こそ、旧一高野球の核心をなした。彼らの野球は人間道をまっしぐらに進んだ。実にわきめもふらなかった。その真摯が全校生徒の魂を引きつけ、日本の全学生を風靡した」(球道半世紀/飛田穂洲)

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by hishikai | 2009-03-25 19:31 | 文化
2009年 03月 22日
「滅びるね」
e0130549_010539.jpg夏目漱石は何を考えていたのか。そのことで世間に誤解があると思う。『三四郎』で広田先生が日本は「滅びるね」と云う場面は夙に有名だが、例えばこれを政治評論家の森田実は「西欧のまねをして一等国になったつもりで浮かれていると、この国は滅びるね」と紹介していて、一般にもそう理解されている。

しかし「西欧のまねをして一等国になったつもりで浮かれている」という筋から「滅びるね」を引出すのは案外に難しい。この左辺と右辺の媒介者として戦後の言論は日露戦勝で驕り昂った陸軍を持出して来るのだが、これは後ろから読んだ歴史で、少なくとも漱石の視点ではない。漱石は講演で次のように話す。

我々のやっている事は内発的でない、外発的である。これを一言にして云えば現代日本の開化は皮相上滑(うわすべ)りの開化であると云う事に帰着するのである。(中略)しかしそれが悪いからお止しなさいと云うのではない。事実やむをえない、涙を呑んで上滑りに滑って行かなければならないと云うのです。(現代日本の開化/夏目漱石)

漱石は日本の近代化の進展が外発的であること、その内実が模倣であることを憂う。しかし「それが悪いからお止しなさいと云うのではない」と云う。また「事実やむをえない」とも云う。だから漱石の警告はここに鉾先を向けたものではない。問題は人々がこの事態を認識する、その仕方その欺瞞にある。

漱石は人間が心を隠さずに現わすとき罪悪は清められると考える。そこから日本人が、日本の西欧化を、あたかも自身の内なる欲求の自然の成果であるかの如く認識するのは欺瞞で、そのような欺瞞はいずれ自覚される。そうなれば日本人は「事実やむをえない」現在の状態を脱しようとするだろう。その結果が「滅びるね」なのだ。そのことは『夢十夜』の第七夜に、こうある。

こんな〈西へ向かう〉船にいるよりいっそ身を投げて死んでしまおうかと思った。(中略)あたりに人のいない時分、思い切って海の中へ飛び込んだ。ところが──自分の足が甲板を離れて、船と縁が切れたその刹那に、急に命が惜しくなった。心の底からよせばよかったと思った。けれども、もう遅い。(夢十夜/夏目漱石)

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by hishikai | 2009-03-22 00:31 | 憲法・政治哲学
2009年 03月 20日
平曲
e0130549_13243412.jpg平曲というものがある。それは何といって、要するに耳無し法一が何処ぞの大きな屋敷と思って、実は平氏一門の墓所で弾き語っていたあれで、今日その印象を一言で云えば「死者の声」である。それは確かに音楽に違いないが、現代人の思い浮べる音楽が西洋文明の産物で、それが光であるとすれば、平曲は影である。

時に地を這うような低い声で吟じたかと思えば、時に天空を浮遊する如くに高い声で吟じる。そうかと思えば突如として平易な調子で、昨日の出来事を語り聞かせる如くに話し出す。その歌唱は懸命に生きる人の有様を、草叢の蔭からじっと耳を澄まして観察していた盲人が、誰かにその有様を教えようとする伝聞に聴こえる。

歌唱がひとしきり済むと琵琶が奏でられる。それは単純で、今日私達の云う演奏の語に値しない。演奏が静寂を音で埋めてゆく作業であるとすれば、琵琶の奏では音で静寂を確認してゆく作業である。それは僧が読経の合間に叩く鐘の余韻が、やがて消え逝く刹那に人がはっと周囲の静寂に気付く、あの感慨に等しい。

そうした歌唱と演奏で語られるのは『平家物語』で、他にはない。そして、これを伝えてきたのは琵琶法師と呼ばれた人々で、彼らは唯ひたすらに口から伝えて耳で覚え、風の吹く日も吹かぬ日も、ある時は貴人の屋敷に招かれ、ある時は陋屋の門に立ってこれを語ってきた。『徒然草』はその最初の人を生仏という名で伝えている。

私も以前に第一人者である今井検校勉氏が東下されて一段を聞かせるというので、確か国立劇場に出掛けたことがあった。その時は清元節との抱き合せで、贔屓の清元節を熱心に聴いていた連中が、いざ今井氏の出番になると忽ちに私語を始めるという有様で、あの時ほど東京人の馬鹿さ加減を思い知ったことはなかった。

それ以来、私は部屋の雨戸を閉切った暗闇で独り平曲のCDを聴く。そして暗黒を見詰めて死者を待つ。やがて微かな金色の光が射すと、その中に冠直衣の貴人や、威しも鮮やかな甲冑武者が現れて、今はもう届かない過去を有々と再現してくれる。そこでは昔の風に昔の木の葉が揺れている。昔の花が爛漫と咲き誇っている。

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by hishikai | 2009-03-20 14:00 | 文化
2009年 03月 18日
模倣者
e0130549_18113093.jpg「馬鹿っ」その瞬間、私は突然恐ろしい父の怒号を耳にした。が、はっとした時には、私はすでに父の一撃を割れるように頭にくらって、湿った地面の上にぶっ倒れていた。その私を、父は下駄ばきのまま踏む、蹴る、頭といわず足といわず、手に持ったステッキを滅茶苦茶に振り回して、私の全身へ打ちおろす。兄は驚愕のあまり、どうしたらよいのか解らないといったように、ただわくわくしながら、夢中になってこの有様を眺めていた。(父・夏目漱石/夏目伸六)

夏目漱石の次男、伸六は小学校入学以前のこと、神社の境内にあった見世物小屋の前で、兄の真似をしてぐずって見せたところ、怒り出した父から激しく打擲された。その時伸六は、なぜ自分がこんな目に合わねばならないのか、その理由が全く解らなかったが、後年、父のある講演記録が目にとまった。

私の所の小さい子供なども非常に人の真似をする。一歳違いの男の兄弟があるが、兄貴が何か呉れろといえば弟も何か呉れろという。兄が要らないといえば弟も要らないという。兄が小便がしたいといえば弟も小便をしたいという。それは実にひどいものです。総て兄のいう通りをする。丁度その後から一歩一歩ついて歩いているようである。恐るべく驚くべく彼は模倣者である。(模倣と独立/夏目漱石)

そこから伸六は、漱石が生来の激しくオリジナルな性癖から、世間一般に幅を利かせる模倣者達、平然と自己を偽り、他人を偽る偽善者達に対して、絶えず心の底に抱いていた軽蔑と憎悪、その乾き切った真実性に対する執着に裏打ちされた強い憤懣が、あの時、我が子に向かって爆発したのだということを理解したという。

だがそれは日本国家と日本人全体に向けられた憤懣だった。日本の近代化というものが常に後追いと模倣の連続であること、しかしながら時間的制約によって、これが如何ともし難いこと、その事態に人々が無自覚であること、そういった事々に対する行き場のない感情が、あの悠然とした風貌と洒脱な作品群の向うに鬱々として潜んでいた。そのことは、今日の私達にとっても決して昨日の問題ではない。

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by hishikai | 2009-03-18 18:17 | 憲法・政治哲学
2009年 03月 16日
柿の葉鮨
e0130549_12161763.jpg柿の葉鮨を一つ手に取る。固く結ばれて、しっとりと重い。渋い緑青の葉を丁寧に剥くと、中から照りのよい鮨が姿を現す。深く燻したような柿の葉の香りが漂い、これを愉しみながら一口に鮨を頬張る。脂と塩気の塩梅が佳い。一緒に奈良の地酒「春鹿」しぼりたて生原酒を呑む。青々とした辛味が口一杯に広がってゆく。

奈良を旅行した時にはこれが楽しみで、日長一日を古寺に遊んだ後、市内に柿の葉鮨を買い求めて、夜、ホテルの古めかしい部屋の、ほの赤い電燈の下でこれを食べる。とっぷりと日が暮れて、窓の外には興福寺の塔が黒々とした影となってそびえ立っている。今日のこと、昔のこと、様々なことが思い出される。

冷えた白ワインと合わせるのも佳い。この鮨は最後に残る微かな酸味が絶好のアクセントなので、これを損なわぬよう、ワインは余りフルーティーなものや酸味の効いたものは選ばず、寧ろすんなりとした辛口が好相性で、後はホテルの電燈に映えるよう、金色の深いものであれば申し分ない。

金色といえば土門拳が何かで「奈良の金色は他所と異なる」と書いていた。黄色味が濃くて不透明で、ユーラシア大陸への憧れが一杯に閉込められた、そんな古い金具が寺の門に黙然と嵌め込まれていて、これが夕焼けに照り映え朱々と燃え上がっている。だから土門拳は骨董屋でも奈良の金色はすぐに判るという。

もっとも私のような盆暗には無縁のことで、せめても吉野山間の美味、柿の葉鮨を語るに後醍醐帝の見果てぬ夢に話を始め、大塔宮護良親王の悲劇を辿りながら、南紀十津川吉野辺の民俗を説こうと少ない蔵書に探ったが、どうやらそれすら荷が重い。今夜は佳き鮨と佳き酒に身を委ね、谷崎潤一郎を引いて終りとする。

先達も新聞記者が来て何か変わった旨い料理の話をしろというから、吉野の山間僻地の人が食べる柿の葉鮨というものの製法を語った。(中略)鮭の脂と塩気とがいい塩梅に飯に滲み込んで、鮭はかえって生身のように柔らかくなっている工合が何ともいえない。(陰翳礼讃/谷崎潤一郎)

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by hishikai | 2009-03-16 12:39 | 日常
2009年 03月 15日
人権思想と人間の現実
e0130549_654859.jpg報道によれば埼玉県の中学校に通うフィリピン人、ノリコ・カルデロンさんの両親が不法在留のため日本政府から国外への強制退去を命じられていた問題は、ノリコさんだけを日本に残して4月に両親がフィリピンに帰国、ノリコさんの面倒は母方の叔母さんが見ることで決着がつきそうだ。

今回の件ではアムネスティ・インターナショナルや支援者から「児童の権利に関する条約」の第3条1「児童に関するすべての措置をとるに当たっては(中略)児童の最善の利益が主として考慮される」と同第9条1「児童がその父母の意思に反してその父母から分離されないことを確保する」という規定が示された。

つまりこれら規定に照らして、日本政府がノリコさんの両親に退去強制を行うことは締約国としての義務に違反し、かつ国際人権基準に違反するという指摘である。従って今回の件で考えるべきは、報道姿勢とそれへの反発による同情か法律かといった問題ではなく、人権思想と人間の現実との整合性に就いてではないだろうか。

人権思想は専制政治に対抗するイデオロギーとしては有効であったが、人が人であることを理由として保障される権利という、その理念自体はフィクションである。市場は人間の必要から歴史的に発生したが、人権は人間の思索から非歴史的に説かれた。それは人間の社会性を忘れた超越的な道徳論でしかない。

人間の存在規定がどうであれ、現実の私達は一定の役割の中で各人なりの目的を持って生活している。そして各人の目的が衝突することがないよう、各々の権利はその範囲を決められている。そのことを定めた法律は社会に生きる人間の相互承認の結果でもある。従って誰かの希望が法律への違背よりも優先されてはならない。

人権思想が法律を跳び越して私達に命令を下すとき、その命令は歴史に見られた国家の姿、人間の歴史的経験、文化的伝統、日常の利害関心を無視した強圧的な義務を語ることになる。そのことは却って人々を権利から遠退かせるだろう。真に法の基準とすべきは超越的な道徳論ではなく、経験に則した社会の法なのだ。

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by hishikai | 2009-03-15 06:22 | 憲法・政治哲学
2009年 03月 12日
疑似漢字に映して見る日本人の文化意識
e0130549_3511332.jpgそら様のブログに「らくだ」という方からコメントが寄せられた。これに就いては私も関係なしといえない。しかし私は両者の間に割って入ろうとか、どちらかに加勢しようとか、そういうつもりはない。ただこのコメントの内容に興味があるので、思うところを少しだけ書いておくこととする。

まずコメントを読んで、私は長谷川三千子氏の『からごころ』という、これまで日本人がどのように外来の文化を摂取してきたかを本居宣長の思索を手掛かりとして述べられた小論を思い浮かべ、次いでその中の疑似漢字に就いて述べられた箇所が、氏の論旨への説明として最も分かりやすい補助線であることを思った。

疑似漢字は古代アジア諸国が国語を表記すべく案出した文字のことで、ベトナムの字喃を始め、契丹文字、西夏文字、女真文字などがある。それらは漢字の部分を組み換えたり、雰囲気を真似るなど様々で、ぼんやりと眺めるならばエキゾチックでさえあるが、しかしそれを凝視するとき、ある苦しさの表情が透けて見える。

それは、漢字で書けば全ては中国語となるのだぞ、という「漢字の言霊」から少しでも遠ざかるため、漢字でない文字を作らねばならない焦燥と、しかし自分達の知っている文字は漢字の他にはないという現実の、あたかも左手で漢字を引き寄せながら、右手でそれを押し返す、そういう苦しみを云う。

文化と云うものには否応もなく引かれた国境があり、それ自体は国境に区切られた一個の血の通った有機体であること、そういうことが常識である人々にとって、文化の輸入は常に苦しみを伴う。この点で日本人の場合、例えば「さくはな」を「佐久波奈」(※)と表記することには、この原則への無意識的な無視が見て取れる。

日本文化が輸入で成立しながら、しかし「今ではまったく独自な発展を遂げています」と述べるとき、そこに疑似漢字のあの苦しみはない。そのような文化への手付きが、現行憲法でさえも、その歴史的成立事情を乗越えさせ「さくはな」を「佐久波奈」と表記する同じ手順でもって、遂にはそれを自己の文化と認めてしまう。

(※)例えば訓読と云うものは漢語の様態を全く無視している。考えてもみよ。「I love you」を「Iハ youヲ loveス」と読み下したときの原文の崩壊を。あるいは咲く花という意味の「sakuhana」という日本語の音を「佐久波奈」と漢字の表音機能だけを借りて表記した万葉仮名の漢語としての全くの不成立を。このような文化の摂取方法は、文化の国境を無視すること、さらには無視していることも無視すること、そのような意識の下で始めて成立する。

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by hishikai | 2009-03-12 04:31 | 文化
2009年 03月 10日
立食い蕎麦
e0130549_1671110.jpg久しぶりに朝の電車に乗ったら、たまたま通勤ラッシュの時間帯でもみくちゃになった。皆一様に殺気立ってピリピリしている。何しろ行きたくもない所に行って、やりたくもない仕事をやるのだから無理もない。私もサラリーマンを十数年やっていたから判るが、朝の通勤は本当にストレスが溜まる。

そういう時に心を和ませてくれるのが駅の立食い蕎麦で、コシのない蕎麦を椀にポンと入れて、どこで作ったか分らない醤油で鰹のような出汁を溶いたツユを掛け、その上に悪い油で揚げた天麩羅を乗せてこれをせわしなく手繰り込む。これが至福の一時で、朝飯を食べてきても、やはりこれを食べなければ一日が始らない。

天麩羅なんかべちょべちょで、これがまた好い。そりゃ、たまにサクサクの立食い蕎麦屋もある。三崎町の「とんがらし」などは注文を受けてから揚げるので、天麩羅がツユの上でザーッと音を立てるほどで、もちろん文句なしにサクサクだ。でもこれは余裕のある時の話で、忙しい朝はべちょべちょをズーッとやるのが好い。

ころもが茶色いツユに溶けて実に旨い。やはり立食い蕎麦の華は揚げ物なのだ。これがざっと思い浮かぶだけでも、かき揚げ、竹輪、春菊、ソーセージ、玉葱、茄子、コロッケといったところで、ちゃんとした蕎麦屋にはない組み合せが嬉しい。中には茹玉子の天麩羅なんてものもある。

玉子といえば生玉子を落とすのも一興で、昔から「生玉子 醤油の雲に きみの月」などと云って、やっぱり蕎麦の方にも「月見」といった粋な名前が付いている。これに天麩羅を合わせると「天玉」と云うが、ということはコロッケと玉子では「コロ玉」と云うのであろうか。この辺りはよく分らない。

とはいえ味のしっかりした立食い蕎麦屋もあって、その筋ではやはり新橋の「かめや」が筆頭であろう。ツユは鰹の香り高く、麺にもコシがあり、天麩羅もサクサクだ。下手な蕎麦屋よりもずっと旨い。ただ好みの問題なのだが、私としては天麩羅をツユに入れると一寸味が濃いと思う。ここでは蕎麦と天麩羅を別に頼んでいる。

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by hishikai | 2009-03-10 16:19 | 日常
2009年 03月 08日
サタ05船団の全滅とベトナムの好意(要約)
e0130549_23395376.jpg昭和二十年一月十一日。サタ05船団は設営隊512名とゴム、錫、重油、軽油を積載してベトナムのブンタオを出航、台湾の高雄を目指した。護衛艦5隻、輸送船5隻の船団だった。この時、ハルゼー提督率いる米国艦隊が南支那海海上にあったが、サタ05船団にその情報はなかった。

翌十二日早朝。船団の上空に敵航空機、数十を確認。「空襲、戦闘配置につけ」の命令が発せられた。敵機は編隊を解き、一機ずつ急降下して攻撃を開始。護衛艦はこれに対し高角砲と機銃で応戦。しかし雷撃を受けて3隻が撃沈されると、続いて輸送船を含む7隻全てが撃沈され、乗員500余名が戦死した。

生存者245名は、木の一本も生えていない、奇岩のそびえ立つ近くの無人島に上陸した。祠が一つあり「大漁祈願、航海安全」と記されてあった。艦艇から持出した海図によると島からベトナム本土まで約10キロ、対岸にロングフックという村がある。半没艦から資材を引上げて即席のボートが作られた。

十四日午前十時三十分。生存者から救援決死隊の9名が選ばれ、対岸を目指してボートを漕ぎ出した。追風に乗ったボートは三時間でベトナム本土に到着。上陸すると村民数百人に囲まれ、筆談するとロングフック村に案内され、黒い盛装で出迎えた村長は、ジャンク船による生存者の救助を約束してくれた。

列車賃を借りてサイゴンに行き、海軍指令部に報告して十六日午後に戻った。途中、若い夫婦がチマキと氷砂糖をくれた。生存者は隣のビンタン村の学校に収容されていた。村民は学校を休校にして屋外にいくつもの釜戸を設け、日本兵のために飯を炊き、果物や干魚を用意した。負傷者はベトナム人医師が手厚く治療した。

あれから47年、平成四年四月。戦死者の慰霊と村民への感謝のため再びベトナムを訪れた。奇岩そびえる小島で水を供えて戦友を慰め、その後、救助にあたった村々を訪れてお礼を述べた。歓迎パーティーがあの学校で開かれ、入口に張られた幕にはベトナム語と漢文で「よく戦った旧日本兵を村は熱列歓迎する」と書かれていた。

これは数年前の八月十五日、酷暑の靖国神社境内にひとり立ち、冊子を配っていたサタ05船団31号駆潜艇乗員、江崎修三という方の、その冊子の内容を要約した物語。

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by hishikai | 2009-03-08 23:49 | 資料