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2009年 04月 29日
終焉の輝き
e0130549_15187.jpg誰も自殺するつもりでしたから、毎日毎日が生きてるそらもなく、こんな遊びで堪えていなければならぬように徳川の方は胸が苦しいのでございます。(中略)桜の咲くころには船を花の下にとめたり、そら雪だ月だと隅田川に日夜を明かして帰るといったわけで、外目には正気の沙汰ではないようですが、ほんとうは国を思い家をおもって青くなってしまったのでございました。(名ごりの夢/今泉みね)

幕末に桂川甫周の屋敷は洋学知識人達のサロンであった。その時代にそぐわぬような典雅、奇妙な輝きについては、例えば「ズーフ・ハルマ」を考えてもよい。ズーフ・ハルマはナポレオン戦争の頃長崎に駐在したカピタン・ズーフが端緒をつけ、その後も通詞らが編纂と補訂を続け天保四年(1833)に大成した蘭和の辞書である。

そのズーフ・ハルマは公式に三部、あとは民間の謄写本が密かに流布していたが、それも大阪の緒方洪庵の塾でさえ福沢諭吉ら塾生五十人に一冊の写本があったという稀少本で、この状況を憂い幕府の公許を得て安政五年(1858)に『和蘭字彙』として刊行し、同本の普及に尽力したのが当時33才の桂川甫周であった。

しかし福沢諭吉が横浜で蘭語の通じないことに衝撃を受けて英語の学習を始めたのが安政六年(1859)、蕃書調所頭取の古賀謹堂が英学の必要を幕府に建言したのが万延元年(1860)と、この頃すでに学問の需要は蘭学から英学へと移り変わっており、ここに桂川甫周が早い遊興の余生を送らざるを得ない背景があった。

これを今泉みねは「こんな遊びで堪えていなければ」と云う。だがもう少し酷薄に見るならば「外目には正気の沙汰ではない」桂川サロンの奇妙な輝きの本当の原因は、無用の人となった桂川甫周の寛容が、未来への野心を隠し持った洋学知識人達に攘夷の嵐からの避難場所を与えたことにあったと云うこともできる。

とはいえ時代の終焉に奇妙な輝きがあることも事実で、源平争乱の最中に輝いた後鳥羽院のサロンがそうであったし、大日本帝国の敗亡にもその輝きはあった。それは橋川文三が大東亜戦争末期を回想して「悠久な夏の季節を思わせる日々であった」と云ったその奇妙さが、冒頭の引用文にある奇妙さと似ていることからも判る。

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by hishikai | 2009-04-29 15:04 | 文化
2009年 04月 27日
江戸の遊びと明治の遊び
e0130549_11305299.jpg昭和十年『なごりの夢』で幕末の実景を語った今泉みねの生家は、代々蘭方医として幕府に仕える桂川家であった。みねの父桂川家七代甫周(ほしゅう)は文政九年(1826)に生まれ、21才で十四代将軍家慶の奧医師となっている。みねの語るところによれば、甫周は役者のような風貌で、重々しい中にも粋な素養を持ち、香を焚き染めた着物をぞろっと着る「まるで婦人のような」人物であった。

住まいは現在の東京都中央区築地七丁目付近の千二百坪の敷地内にあり、そこに成島柳北、柳川春三、宇都宮三郎、神田孝平、箕作秋坪、福沢諭吉といった当時の新知識人達が集い、芸妓を招き端唄を唄い、桜の下に舟を浮かべて詩歌に耽り、月を眺め雪を愛で、ときには彼らが天麩羅を揚げて芸妓をもてなし遊んだという。

しかし明治になると遊びは一変し『東洋百華美人伝』が伝えるところによると、ある晩、長刀美服の高官達が料亭に芸妓を招いて宴を催した時のこと、詩の高吟や剣舞の披露が終ると裸相撲が提案され、芸妓達が戸惑っていると、やおら一人の高官が立上がり真剣を床柱に斬り込んだので、芸妓達はやむを得ず裸で相撲をとる。

高官達はこれに喜び、起って畳七八枚を重ねてこの上に座り、大杯で酒を飲み、勝った者には四五両より七八両を与えた。この乱痴気騒ぎが終り、料亭の主人が彼らを舟で送ったところ、彼らの中に木戸孝允や大久保利通など名士の含まれていたことが判ったという。

これは薩長武士が田舎者であるばかりでなく、明治という時代が価値の正統を立身出世主義に置いたことによる。立身出世主義は社会を自身の成功が試される公器と看做す思想で、その禁欲と解放を表裏とする構造が、実生活での昼の精勤と夜の放埒に対応し、これが「遊び」を「憂晴らし」へと転落させる仕組となっている。

幕末までの遊びが洗練された型へ欲望を飼い馴らしていく行為であるとすれば、明治の遊びは既存の型を破壊し欲望を開放していく行為である。前者は社会生活より上位に優越して廃滅し、後者は社会生活より下位に陋劣して存続した。これが時として社会的制約を逸脱して憚らない現在の「レジャー」の原型となっている。

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by hishikai | 2009-04-27 11:32 | 文化
2009年 04月 22日
隅田川
e0130549_14325685.jpg隅田川が最も汚れていたのは1960年代であろうか。近くの安田学園では授業中も匂いが酷いので困ったということを、当時そこに通った学力優秀な方々が、もつ焼き屋のカウンターでハイボールを片手に真っ赤な顔でゲラゲラ笑いながら話されているのを、先日も私は同じ電燈の下で頬杖をしながら聞いた。

今日ではそれも随分と良くなっているが、それでも東京下町の川の風情というものには、例えば滝田ゆうの絵の猥雑や、例えば嘉村礒多の小説の「川口を通う船の青い灯、赤い灯が暗い水の面に美しく乱れていた」というような哀切を強調する目的から、その汚れを借景として利用する意識が働いている。

ところが『名ごりの夢』という昭和十年に八十一才だった今泉みねの幕末回想記を読んでみると、その頃の隅田川に借景とすべき汚れは存在しなかったようだ。それは『伊勢物語』や謡曲『隅田川』に登場する川の美しさを詠う江戸の風情と、都市生活の猥雑と哀切を詠う東京の風情との端的な違いを示して、こう述べている。

私の幼いころのすみだ川は実にきれいでした。「すみた川水の底まで涼しさの とほりて見ゆる夏の夜の月」とどなたやらのお歌にもありましたように、真底きれいで水晶をとかしたとでも申しましょうか。家はちょうど両国橋とみくら橋との間のようなところにございまして、みちを隔てて大河に面しておりましたから、すみだ川の四季折々の眺めはほしいままでございました。

物見のお窓から背のびして垣間見た私の幼時の記憶にのこっていますものの中で、ただ今も忘られず美しかったとまぼろしのように憶い出でますのは、鏡のような静かな水の面にうかんだ屋根舟でした。それが花見のころとか月のよい晩などには、よけいきれいな人をたくさんにのせて、のんびりと川の面を行き交う風情はほんとに浮世絵そのままでございます。

橋のあたりを舟はすべるように行く、チャンチャラチャンと三下りの都々逸かなにか、三味線の音は水にひびくようです。その調子やひびきに、まったく水は馴れています。そうして船頭は大てい浴衣一枚、それもほんとにちょっと手をとおしているばかりなのを風にふかせて、くるくるっと細く撚った手拭いを頭にのっけてるようにした鉢巻、肥どろかつぎのしているような仕方とはまるでちがって、見るからに威勢はよいのです。

そしてふりまわす棹の雫はパラッと玉のように散る⋯⋯とても今は見られない味わいの深い光景だったと思います。当時は別になんの考えもありませんで見ていたのですけれど、後になってもう一度見たり聞いたりしたいというおもいは止まないのでございます。(名ごりの夢/今泉みね)

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by hishikai | 2009-04-22 14:37 | 文化
2009年 04月 20日
道徳的世界
e0130549_1544314.jpgどの道徳体系においても、私は常に気が付いていたのだが、その著者は、しばらくのあいだ通常の仕方で論究を進め、それから神の存在を立証し、人間に関する事柄について所見を述べる。ところが、突然、出会うどの命題も「である」とか「でない」という普通の連辞で命題を結ぶ代わりに「べきである」または「べきでない」で結ばれていることに気付いて、私は驚くのである。(D・ヒューム)

もし道徳が幾何学や代数学のような確実性をもたらすことができるのであれば、人間世界の諸事全般の中の、どこにでも普通に見ることが出来る人間の徳や悪徳といったものを、例えば質の程度や量、数の割合のような基準を用いて、その諸関係の中に明示することが出来るはずである。

そして、それらは当然のことながら、生命を持たない物質に対しても、その基準を用いて言及できるはずであるのだから、例えば机と椅子はどちらが道徳的に価値が高いのか、太陽の運行と月の運行はどちらがより道徳的に好ましいのかといった議論も大真面目に行われなければならないであろう。

ところが事実として、そのような話は聞いたことがない。結局のところ「である」とか「でない」という結句で文章を終えることが出来る事柄と「べきである」または「べきでない」という結句で文章を終えることが出来る事柄とは本質的に異なるということを、人間は希望を込めて、曖昧にしたがるということではないか。

希望を込めてとは、人間が自分の生きる世界の隅々に至るまで本来は道徳で律することが出来る、そう思いたいという願望のことで、そういう気持も解らないではないが、例えば市場といった仕組が、道徳とはほとんど無縁でありながら、人間生活の大部分がその影響下にあることを考えてみても、道徳の限界は明らかであろう。

道徳は人間が社会の中で他者と関わりながら相互の安全のために取り交してきた黙約である。だから同じ事柄でも時代により道徳的な価値は変動するし、それが人間世界の陰翳である。いくら太陽光が善いからといって、世界の隅々まで日向であったならば、その世界は地獄である。

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by hishikai | 2009-04-20 15:10 | 憲法・政治哲学
2009年 04月 17日
洲崎
e0130549_113585.jpgいくら泣いても喚いても、町を離れた洲崎の土手。昼でもあるか更ける夜に、往来希な雨上がり。湿りがちなる汐風に、途切れた雲の星明かり、微かに聞こえる弁天の、茶屋の端歌や中木場の、木遣りの声を寝耳に聞き、いなごやばったと割り床に、露の情けの草枕。お主としっぽり濡れる気だ。どうで汚れた上からは、ここで器用に抱かれて寝やれ。(網模様燈籠菊桐/河竹黙阿弥)

歌舞伎狂言『網模様燈籠菊桐』の一場面。稲妻走る洲崎土手、小猿七之助が奥女中滝川を手込めにしようと吐く台詞。洲崎は江戸の昔から、春は潮干狩り、秋は月見で賑わう行楽の地であったが、同時に江戸南端の淋しい海浜の地でもあった。その明暗深い洲崎の原風景と後の歴史への予感を、この台詞は見事に描き切っている。

明治21年、吉原と並び隆盛を誇った根津遊廓が、近隣の帝大生への風紀よろしからずという理由で、──帝大生諸君の無念もよそに──新しい洲崎の埋立て地へと移されたことが洲崎遊廓の始めとなった。東京湾を向うに芝、品川の灯を望む夜景には独特の情趣があったという。広津柳浪は『浅瀬の浪』にこう書いた。

遥かに見ゆる芝浦の料理店には酒客の灯火低く、高きは愛宕の塔か。一点、又一点白金台より伊皿子台に連なり、千点集まる処は品川の青楼か。(中略)点々尽る辺三四高く掛つて星かとも見ゆるは、夜泊夢は穏やかなる帝国の軍艦であつて、その四半時毎に夜を警むる鐘の音は、人をして不覚に無限の感を惹かしむる。(浅瀬の浪/広津柳浪)

柳家三亀松は深川に生まれ、若くして洲崎に遊んだ。その芸歴の始めに新内流しだった頃、彼は此処で三味線を弾き歩いていた。「新内さん」と二階から女の声。「へい」と流しが答える。「蘭蝶をお願いしますよ」「ありがとう存じます」⋯。明治に妓楼160軒で娼妓1700人、大正に妓楼270軒で娼妓2000人を数えた。

日本が降伏した時、洲崎は焼け野原だった。復興後は半分がバラック住宅になり、遊廓は特殊飲食店と名を改めて「洲崎パラダイス」のネオンを灯した。そして昭和33年、売春防止法が施行され、洲崎遊廓は70年の歴史を閉じた。更正寮で女性達の一日の食費は61円66銭、東京都の野良犬勾留所で犬の餌代は79円55銭だった。

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by hishikai | 2009-04-17 11:17 | 文化
2009年 04月 14日
『赤線地帯』
e0130549_20543724.jpg『赤線地帯』という映画がある。昭和31年大映の配給で、監督は溝口健二。売春禁止法成立前夜の吉原歓楽街を舞台に、サロン「夢の里」で身をひさぐ女性たちの、苦境にあえぎながらも互いに励まし合って生きる姿を、京マチコ、若尾文子、三益愛子、小暮実千代、町田博子、沢村貞子らの女優陣で描いている。

この脚本は一部が昭和29年頃発表された芝木好子の『洲崎の女』によると言われている。『洲崎の女』は洲崎歓楽街に生きる登代が、実家に預けていた子供から絶縁を宣告されたことを契機に、偶然目撃した近所の子供の溺死と、空襲で子供と海中に避難した記憶とが重なって、やがて洲崎の海に引き込まれてゆく物語である。

これが『赤線地帯』では、三益愛子演じるゆめ子が、仕送りで育てた子供が成長して工場で働き始め、ここに訪ねたところ、子供から「汚い」と罵られ絶縁を宣告されたことで、やがて発狂するという、その人物のモチーフになっていて、これが脚本の一部『洲崎の女』によるということの意味の全部となっている。

では他の女性たちのモチーフは何処か。それは多くが昭和29年に発表された大河内昌子の『よしわら』にある。ここに収められた柳沼澄子の小説『石の上に咲く花』に登場する店の若い衆、栄公は菅原謙二演じる同じ栄公で、彼が連れて来る京マチコ演じるミッキーは小説ではサリーで、共に米兵を客とした経歴を持つ。

同じく京マチコ演じるミッキーの関西出身で、土地の名士であるが放蕩を尽くす父を憎み、虐げられた母に強い同情を示す設定は、あい子の手記『能面』と同じで、稼ぎを分配する席で沢村貞子演じる辰子の言う「やすみちゃんは、はいトップ、あとはドングリの背比べ」という台詞もまた『石の上に咲く花』に同じくある。

また三益愛子演じるゆめ子が子供を預けた田舎に行き、停留所近くの茶店で、何処の村まで行くのかと尋ねられた時の台詞「村なんか聞かないでもさ、また来る時は来るよ」も、あきの手記『帰郷』にあり、川上康子演じるしづ子が親子丼を食べて感激する場面は、より江の手記『親子丼』にある。

そのより江という名前は町田博子演じる女性の名前になっており、小暮実千代演じる病気の夫と小さな子供を抱える通いの女性、はなえという設定は二三子の手記『ある日記』に見られる。このように『赤線地帯』は『よしわら』から多くを得ているが、どうしてか世に知らされた時には芥川賞作家の名前一つきりになっていた。

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by hishikai | 2009-04-14 20:04 | 文化
2009年 04月 13日
『よしわら』より 女のからだ
e0130549_0374564.jpg女のからだ 江戸二 D楼 みずよ

どうしてまた、こんなところへ戻つてきたんですかつて?そうね。あんたのような人の目から見たら、こんな四十づらさげてさ、紅いもんや、白いもんぬつたくつて、このランプの下に立つているあたしを、よつぽどあわれな人間だと思うにちがいないよ。

だけどさ、このハデな着物ぬいで、すつぱだかになつたあたしはさ、どつちみち女だよ。おしろいの下にかくれてるあたしの肌には、長年の苦界のしわが、いつぱいあるかもしれないよ。けどね⋯、しわを一枚ヒンムケば、その下にやあ、まだ女の血がながれてるのさ。年をとつて、ますます自分のからだのうまみを知つた女の血がね。(中略)

あたしア、三十にならないうちに、このくるわからとび出したの、とび出したからつて、あたしが今までとおつてきたみちつてば、やつぱり紅いあかりのついたのれんの下さ。のみ屋、料理屋、おでん屋、かたいところじや旅館のお女中さんにもなつた。けど、駄目だつたのさ。あたしア正直いつて、男が欲しかつたのさ、いつも⋯。(中略)

考えてみりやア、つくづく女のからだつてぇヤツは、インガなもんさ。女の星つてのはかなしいもんさ。それが四十の坂をこして、いたいほど、思い知つたもんだ。この世の中の女つて女は、みんな男あつての女さ。それでなくて、なんのために女つていうりつぱなからだがあるんだよ。(中略)

男が夢中になつて入れあげる女の期間つてのはほんとにみじかいもんさ。花のいのちみたいに、はかないもんだよ。けどね、それからさ、それからなんだよ。きれいな花びらが散つてからなんだよ。女のからだが、ほんとうにもえてくるのは──。これが女つていうからだのさだめなんだよ。(中略)

あたしが女のからだの動きのおもしろみやくるしみを知つているかぎり、そして、男つていう男のあらゆる瞬間のからだのうごきを知りつくした今になつては、あたしやそうしか云えないのさ。なるようにしかなれないつて⋯。いまのあたしア、ただ待つてるだけだよ。あたしを頭のてつぺんから、足のつまさきまで夢中にさせてくれるひとのことをね──。(よしわら/大河内昌子 編)

by hishikai | 2009-04-13 00:40 | 資料
2009年 04月 12日
『よしわら』より 親子丼
e0130549_1574354.jpg親子丼 S店 より江

なんていつたつて、ここへ来てはじめてオヤコドン食べた時の味、忘れられないナ。ウマカツタ。ほんとにウマカツタ。世の中にこんなウマイモンあるかと思つた。きいろいきれいげなイロした玉子のトコロドコロにホキホキした肉、マツシロイごはんの上にのつかつた、こんなゴチソウははじめて食べた。あつたかいドンブリのフタをとつた時、あたしが何時もクイタイ、クイタイと思つてたニオイがプーンとした。

このニオイだ。このニオイだ。あたしがねえやをしていた時に、毎日、そこのダンナサンにはこんだベントーの中からしていたニオイは⋯ とうとう、あたしは食べた。ああ、あの時は、あたしは、そのダンナさんに持つてゆくベントーが死ぬほど食いたかつた。

あつたかいベントーをかかえて、おやしきを出るあの時のあたしは、何時も、いつも、ハラがへつてハラがへつて、たまらなかつた。ああ、ハライッパイ、クイタイ。それが、ねえやのあたしのさいじようの、のぞみだつた。そして或日、あたしは、死にたいほど食いたかつた。アッ、コロサレテモイイ、コノベントー、クッテシマウベ。

あたしは、とうとう、道のまん中に立ちどまつて、さげていたベントーのつつみを胸にだいた。あつたかいベントーの底で、胸が、ドクッ、ドクッとなつていた。そして、あたしは思わず泣いた。ナミダがボロボロ出てとまらない。だつて、その時のあたしは死ぬほどハラがすいていたんだつた。(中略)

あたしは何故ここから出ていかないのだろうか。あたしにとつて、この問いは、いいたくない、あたしの心の底をあばかれるような気がする。カタギになれ、アンタなら出来るといつてすすめてくれた人の前では、あたしは、早くカタくなつて、どんなことでもやつてみようと思つてもみる。けれども、正直を云えば、あたしは、一歩世の中に出たら、どんな風が吹くか、それがおそろしいのだ。(中略)

あたしが、あたしという女の運命について考えるとき、あたしの頭の上で、その星は、これで、この現在で、まんぞくしろとささやいているような気がするのです。もし、あたしがこれから先、ここを出たとしても、いまのあたしにあるような幸福はないだろう。

あたしはほんとうにそう思つている。苦労に苦労をしてたどりついたこのくるわの中で、あたしのいままでの苦はみんな消えていつた。これに満足し、いまの生活から出ていこうとしない自分を、あたしは、いとしいとさえ思う。(よしわら/大河内昌子 編)

by hishikai | 2009-04-12 02:00 | 資料
2009年 04月 09日
島崎藤村『夜明け前』維新と御一新
e0130549_1281484.jpgかつて木曽の広大な山林は多くが尾州藩により伐採が禁じられていたが、米麦の乏しい土地でもあり、領民には各種の補助が与えられていた。だが明治四年に補助が廃止され、さらに山林の殆どが官有林になるとの県庁の方針が示されるに至り、木曽三十三ヶ村は山林の一部民有化を訴える嘆願書を準備した。このとき村民の意見を取りまとめた馬籠の戸長(旧庄屋)青山半蔵は県支庁に突然呼出されて戸長を免職となった。

〈翌日の帰り道には、朝から晴れた。青々とした空の下へ出て行って、漸く彼も心の憤りを沈めることが出来た。いろいろ思い出すことが纏まって彼の胸に帰って来た。「御一新がこんなことでいいのか」と独り言って見た。時には彼は路傍の石の上に笠を敷き、枝も細く緑も柔かな棗(なつめ)の木の陰から木曽川の光って見えるところに腰掛けながら考えた。〉(夜明け前/島崎藤村)

「御一新がこんなことでいいのか」この一言が胸に響く。ここにある「御一新」は明治維新のもう一つの言い方だが、両者に込められたニュアンスはおのずから異なる。それは「明治維新」が中央集権国家の建設と文明開化に象徴される進歩であるとするならば「御一新」は尊王倒幕と世直しに象徴される復古である。

「明治維新」と「御一新」。進歩と復古。これらは明治という時代が、一方は対外的な官製の地表として、一方は潜在的な民情の地下水脈として、その船出の最初より抱え込んだ矛盾であった。現在では西欧思想の発露と考えられがちな自由民権運動も、実質は「尊王倒幕論の一転化」であったと徳富蘇峰は後に記している。

あるいは農本主義者の村落共同体思想、二二六事件の救貧思想、あるいは天理教の中山みきから、大本教の出口なおまで、それら近代化の道程に現れた幾つかの異端思想は実のところ、この地下水脈の地表への噴出ではなかったか。それ程までに二つの理念は明治を超え、近代日本全体を貫く矛盾だったのではないか。初夏の陽光に光る木曽川を見詰める青山半蔵の思念は、やがて次のように赴く。

〈彼半蔵のような愚直のものが忘れようとして忘れられないのは、民意の尊重を約束して出発したあの新政府の意気込であった。彼が多くの街道仲間の不平を排しても、本陣を捨て、問屋を捨て、庄屋を捨てたというのは、新政府の代理人ともいうべき官吏にこの約束を行って貰いたいからであった。〉(夜明け前/島崎藤村)

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by hishikai | 2009-04-09 12:23 | 文学
2009年 04月 06日
近代史の読み方
e0130549_2229520.jpg明治大正の人々をして徳川期は封建的だと言わしめたように、前代の価値を否定して当代を正当化することは一個の手段としてはあってもよい。しかし私達の生活する戦後日本という時代の異常は、それを手段に用いるという以上に、その思想と体制の存在意義の全てを前代の否定の上に立脚させている点にある。

したがってマスメディアや言論界が人間の自然の情動として近年進みつつある前代の再評価、即ち明治維新から敗戦までの歴史への再評価という動きを、躍起になって潰そうとするのは時代で糊口をしのぐ者の反応としては当然であろうが、それでも異常なものは異常として戦後日本はいずれ精算されるべきだと私は思う。

そのとき直接の争点となるのは大東亜戦争の敗戦と、時代がそこへ流れ込んでゆく過程をどう考え、どう評価するのかということで、この道のりで最初の分岐点となるのは、時代の運動の原動力を一部為政者の政策に求めてゆくのか、あるいはそれを当時生きていた人々全体の思潮に求めてゆくのかということであろう。

この点で戦後は前者の方法、つまり時代の運動の原動力を一部為政者の政策に求めることが専らで、したがって論者が戦前の歴史に肯定的な立場であれ否定的な立場であれ、その思考の営為は常に一部為政者と一部軍人に対する人物評価に終始し、ここに時代に翻弄される無辜の大衆を対置するという構図を描いてきた。

だが国民国家の歴史を観察するならば、為政者の政治生命存続の是非は如何に大衆の意思を明敏に察知するかにかかっており、また彼等の政策決定の要諦もその延長線上にあるのが実際で、そもそもナショナリズムの源泉が為政者の脳裏にあるのか、大衆の脳裏にあるのかを考えれば、これまでの方法の欠陥は明らかである。

したがって今後大東亜戦争の敗戦とその前史を探るにあたっては、当時生きていた人々の思潮の分析に多くの労力を費やすべきであろう。そのとき有用な資料となるのは大衆の嗜好を反映して生き残ってきた文学作品と多くの著作物で、これに対する検討が戦前の歴史の実相を照らし出す大きな手掛かりになると私は思う。

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by hishikai | 2009-04-06 22:31 | 憲法・政治哲学