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2009年 06月 30日
イタリアの統一
e0130549_16453286.jpgイタリアの統一は英雄ジュゼッペ・ガリバルディと、サルディニア王国の宰相カミロ・デ・カヴールによって成し遂げられ、十九世紀後半に生きたヨーロッパの人々を熱狂の渦に巻き込んだ物語である。しかし皮肉な読み方をするならば、それは民族主義と近代国家、その理想と現実、新しい観念と旧い観念の矛盾を書いた物語であるようにも見える。

1859年、フランス軍がアルプスを越えてオーストリアの支配するイタリア北部へなだれこむ。これはサルディニア王国宰相カヴールの、フランス皇帝ナポレオン三世への哀訴と密約の成果であった。そしてマジェンタとソルフィーノの両決戦でオーストリア軍は敗れ、アルプス以南の平原でハプスブルグ家の勢力は駆逐される。

このことでイタリア全土に波及し始めた革命の気運を、これまでも母国イタリアと南アメリカで共和国樹立のために闘ってきた筋金入りの闘士であるガリバルディは見逃さなかった。1860年、彼はカヴールの内諾を得た上で、旧式の銃や錆びた銃剣を携えた千人の義勇兵を率いてジェノヴァを出航し、シチリアへ向かう。

シチリアとナポリを併せたイタリア南部はブルボン王家の支配するナポリ王国である。圧倒的な劣勢の中でガリバルディと義勇軍は勇敢に戦い、多くの民衆と共にシチリアを解放し、次いでナポリに入城する。しかし瀕死のナポリ王国にとどめを射したのは応援に駆付けたサルディニア軍であった。カヴールは最少の犠牲で最大の功績を手に入れたのだ。

それから一年もたたない1861年3月にはイタリア半島の大半の地域がサルディニア国王の下に統一される。カヴールには批判もあったが、そんなときカヴールは「もしも私が自分のためにしたのなら、さだめし大悪党だろう」と言った。国王と議会、古風な君主大権と自由主義的な制度という矛盾を二つながらに備えた近代国家がヨーロッパに現れ始めるのはその直後である。あたかもイタリアがカヴールとガリバルディの明暗によって統一されたように。


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イタリア統一の英雄ガリバルディ。肖像画は1845年、彼がウルグァイにいた時に描かれたもの。彼がかぶっているソンブレロは、イタリアに帰国した後には彼の姿に欠かせないものとなった。1859年、サルディニアがオーストリアを撃破すると、彼は1000人の義勇兵を指揮してシチリアに侵攻。2万4000人ものブルボン王家の軍隊を破った。左はカタラフィーミでブルボン王家軍と戦う、彼の義勇軍「赤シャツ隊」。

by hishikai | 2009-06-30 17:10 | 第一次世界大戦
2009年 06月 27日
民族主義の勃興
e0130549_16472112.jpg平和だった二十世紀初頭のヨーロッパが、突如として第一次世界大戦を引き起したことについては、ヴィルヘルム二世の不器用な対外政策が要因ではあるが、かと言ってそれが全てではない。いかに彼が成長著しいドイツ帝国の皇帝であっても、個人の力で六カ国の列強からなるヨーロッパを世界戦争に引きずり込むことなどできはしない。

三国同盟と三国協商が対立した当時のヨーロッパがそうであったように、国際社会の二極構造は戦争勃発の可能性が最も高いとされる。しかしどこかの国家が妥協をすれば戦争を回避できる可能性もある。事実十九世紀末のヨーロッパは平和だったのだ。なぜ二十世紀初頭にそれができなかったのか。その要因には民族主義の勃興がある。

それまでのヨーロッパの国際政治システムは、例えば1698年に性的不能者であったスペインのカルロス二世の後継問題で、フランスのルイ十四世が自分の孫を、そしてオーストリアのレオポルト一世が自分の息子を各々候補者に挙げて争ったときに、イギリスやオランダが提示した調停案にその典型的な考え方が示されている。

そこにはスペイン王に第三者であるパイエルン選定候をつける代わりに、イタリア国内のスペイン領はフランスがナポリとシチリアを、オーストリアがミラノを各々分割して受取るという内容が記されてあった。つまり十七世紀には今日で言う意味の国民はなく、国家や領土はその時々の都合で分割される「もの」であった。

そして1815年のウィーン会議が、ナポレオンの征服と敗北の後始末としてヨーロッパの国境線を引き直した後でも、なおこの色彩は強く残り、諸王家の姻戚関係と妥協の積み重ねがヨーロッパの勢力均衡に貢献した。(もっとも1698年の調停は不調に終ったが)それが変化を始めるとき、そこに民族主義は登場する。

まずギリシャ独立戦争と、これによってヨーロッパ人の間に引き起された一大センセーションがある。やがて1830年代にはヨーロッパ各地で暴動の嵐が吹き荒れ──この結果として代表民主制を獲得したのはベルギーだけであったが──そのことが同一言語と平等の国政参与権による共同体、すなわち民族国家こそがヨーロッパ人の胸に深く抱かれた理想であることを、諸王家に対して示すこととなる。

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『メディア』(主演 サラ・ベルナール)のポスター A.ミュシャ 1898

by hishikai | 2009-06-27 16:49 | 第一次世界大戦
2009年 06月 25日
虚栄の果て
e0130549_1322043.jpg他人から大人物として扱われたい。そんな虚栄は往々にしてつまらない結末をもたらす。居丈高な態度で忠告をする、相手の肩を揺すって大笑いをする、憤然としてテーブルを叩く、そんなことをすれば折角の大人物も、周囲には危険人物と受取られかねない。ちょうど十九世紀末のドイツがそうであったように。

プロイセンを中心に統一されたドイツの成長は目覚しかった。イギリスと比較するならば、重工業は1890年代にすでに抜き去り、1900年代初頭のGNP成長率はその二倍であった。1871年に40万人だった常備軍は1914年には82万人に急増し、おまけに彼らの「ティルピッツ計画」は世界第二位の海軍力を目指していた。

e0130549_1324079.jpg皇帝の座についていたのは、ヴィルヘルム二世。癇癪持ちで片腕がよくきかず、強い劣等感に苛まれながらも、自分を神の代理人と信じ込んでいたこの威圧的な君主は、きびしい軍隊の訓練を受け、水泳や乗馬をはじめピアノの演奏まで習得していた。彼は独裁的であったが、臣民の心を強く惹き付けていた。

そして彼の対外政策もまた威圧的だった。1905年、彼はフランスがすでに足場を築いていたモロッコに乗り込み、その地域の独立を主張した。1908年にバルカン半島の緊張が高まると戦争をちらつかせて他国の介入を排除した。1911年にはモロッコのアガディール港に砲艦一隻を送り込んでフランスを威嚇し、これ以上の干渉をしないことを条件にフランス領コンゴの一部を手に入れた。

とはいえ彼、つまりヴィルヘルム二世は戦争を望んでいたわけではない。それは威嚇による不器用な和平工作であったといわれる。1900年からドイツの首相を努めたベルンハルト・フォン・ビューローはこう証言している。「彼の愛国的で威嚇的な演説は、外国人に対しフードリヒ大王かナポレオンの再来が、ここにいるという印象を与えたかっただけなのだ」

だが怯えたイギリスはフランスと、ついで1907年にロシアと同盟を結んだ。三国協商である。これは先に結ばれていたドイツ・オーストリア・イタリアによる三国同盟との決定的な対立を意味していた。イギリスの外務事務次官エア・クロウは、イギリスのこのような反応は自然法のようなものであると論じた。

平和で優雅で文明的な十九世紀末のヨーロッパは、しかしその地盤の深いところで、こうした融通の効かない二極構造へと徐々に変化していった。そして1914年、サラエボでのフェルディナント大公暗殺が二極構造のスイッチを押したとき、そのつまらない結末もまた、自然法のようにもたらされた。

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『ジャンヌ・ダルク』(主演 サラ・ベルナール)のポスター E.グラッセ 1893

by hishikai | 2009-06-25 13:07 | 第一次世界大戦
2009年 06月 23日
安全保障について
e0130549_16503658.jpg戦争はなぜ起こるのか。これはほとんど答えの無い問いであるように思われる。人間の宿命だ。そう言ってしまえば何もかも説明しているようだが、それはかえって過剰な説明になる。その説明は戦争をする国家と、そうではない国家があるという事実について答えない。

私たち日本人も戦争には苦い経験を持つ。だから今日でも戦争を感情的に忌避するのだが、忌避することで戦争勃発を予見し、これを避け、あるいは避けるべきではないという切迫した判断がなされるかといえば、答えはノーである。忌避することは人を守らない。

e0130549_16513616.jpg昨年12月19日に帝国ホテルの一室で開かれた民主党幹部とアメリカの安全保障専門家との会談の席上、アメリカ側の一人で元国防次官補J.S.ナイが、民主党の政権公約に掲げられている安全保障政策に対して懸念を表明したということも、そのような戦争への考え方の違いを示している。

これを産経ニュースは「民主党が掲げる政策を一度にぶつけたら、米議会や政府は反米とみなすかもしれない」というアメリカ側の発言と共に伝えているが、問題なのは反米という言葉ではなく、この後でJ.S.ナイも指摘しているように、民主党の公約には「日米協力の全体像(トータル・パッケージ)がない」ということである。

それは現在の国際社会の構造、主要なプレーヤーである諸国家の歴史的な背景、同盟関係の現状、相互依存の度合い、それによる行動の予測、パワーの分析、脅威の特定といった観点から安全保障を考える、それも常に動いている情勢の中で考えるという思考が、民主党とこれを支持してきた日本人に欠如していることに起因しているのではないか。

戦争を感情やイデオロギーから考えることは、考える対象の内容に何らの区別も設けないために、あまりにも多くのものを説明してしまい、肝心の安全保障の実際については何も説明しない。そのような思考パターンをJ.S.ナイは次のように表現している。「止まった時計の針は、一日に二度正確な時間を告げるが、それ以外には用をなさない」

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『ゲルニカ』P.ピカソ 1937

by hishikai | 2009-06-23 16:58 | 憲法・政治哲学
2009年 06月 21日
永遠の平和
e0130549_18502176.jpg十九世紀から二十世紀へと移り変わってゆくとき、ヨーロッパは調和と平和の時代の只中にあった。戦争らしい戦争を目撃することもなく成年に達した彼らは、武力行使のような野蛮な伝統を繰り返すほど文明人は幼くないと信じた。人間は高度な文明へと躍進する──目の当たりにするもの全てがそう語りかけていた。

1897年のイギリスはヴィクトリア女王統治六十年を祝って興奮に酔っていた。祝典の行進は身長2mのエイムス大尉を先頭にして始まり、堂々とした騎兵隊、そして様々な制服を着たカナダ、インド、オーストラリア、ジャマイカ、ホンコン、シンガポールといった世界各地の大英帝国の歩兵隊がこれに続いた。

行列の終尾を飾る八頭の白馬が引く馬車の中には、イギリスとアイルランドから成る連合王国の女王にしてインドの女帝、ヨーロッパの祖母と謳われた78歳のヴィクトリア女王の黒衣をまとった小さな姿があった。10kmの沿道は花で埋め尽くされ、居並んだ数百万の人々はイギリスへの誇りを口々に叫んだ。

フランスもまた陽気で花やかだった。普仏戦争とパリ・コミューンは遠い過去となり、第三共和国の政治と経済は安定していた。海外領土もアフリカと東南アジアに約780万平方kmに及ぶ広大な植民地を獲得していた。フランスはわずか一世代のうちに世界的な勢力を持つ国へと復興した。

e0130549_1851586.jpgドイツの国力も充実していた。統一されたドイツの商工業はイギリスと肩を並べるまでに大きくなり、その成長率はイギリスの二倍であった。「ドイツは世界国家になった」皇帝ヴィルムヘルム二世は、そう誇らしげに断言すると植民地の獲得に乗出した。その自信は強力な常備軍の存在に裏付けられていた。

マネが、ルノワールが、ピカソが描き、ロダンが彫り、ワーグナーが、チャイコフスキーが作曲した。ニジンスキーが踊り、ニーチェが、フロイトが著わした。アルミニウムが初めて造られ、キュリー夫妻がラジウムを発見した。暗いのはドストエフスキーと彼に影響された遥か東方の国、我が日本のインテリゲンチャだけだった。

だが1914年6月14日、オーストリアのフェルディナント大公夫妻の車がサラエボで二発の銃弾を浴びたとき、情勢は一変した。フェルディナントは口から血を流しながら夫人に叫んだ。「ゾフィー!死んではいけない。子供達のために生きるんだ」──そして数分後、彼が座席へ崩れ落ちて死んだとき、ヨーロッパは第一次世界大戦の火中に投げ込まれた。

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by hishikai | 2009-06-21 19:11 | 第一次世界大戦
2009年 06月 18日
北朝鮮の核問題について
e0130549_11593439.jpgアンダー・ドッグに味方せよ」というバランス・オブ・パワーの原則からすれば、北朝鮮への制裁に中国やロシア、そして時に韓国が消極的に反応することは驚くに値しない。彼らにとってみれば北朝鮮が核保有国になることよりも、朝鮮半島にパワーの空白が生じる不安定の方が望ましくない。

かといってアメリカが本腰を入れて対応するには北朝鮮は地理的に遠い。1890年代に拡大を続けるアメリカにイギリスが宥和したのは、遠いアメリカよりも近いドイツを恐れたためで、文化的同一性のみによるのではない。脅威の大きさは近接性に影響される。アメリカにとって北朝鮮はキューバではない。

これら一連の事態はバランス・オブ・パワーの前提である《(1)国際政治の構造は無政府的国際システムである(2)国家は自らの独立を至高のものとみなす》という認識に基づく行動が各国独自に為されるもので、その判断の重さはいかなる理念や事情もこれを超えるものではないことを示す。

e0130549_1201329.jpgこのことは我国の場合も同じで、上記の前提に立った認識に基づいて独自に行動することは当然である。他国と連携して行動することで目的が達成されると判断するならば、そうするのもよい。しかしそれが当てにならないと判断するならば独自のパワーを問題の核心である北朝鮮に対して行使しなければならない。

パワーには誘引するソフトパワーと強制するハードパワーとがあるが、この場合ソフトパワーの行使は我国と北朝鮮に共通の価値基盤がなく、北朝鮮に失うべき国際信義も存在しないために効果がない。経済制裁も中国の重油支援のような決定的な依存関係が我国と北朝鮮の間に存在しないために効果が低い。

したがって手段としてはハードパワーの行使、つまり軍事力の行使が考えられる。そしてこの軍事力にはミサイル迎撃から敵地先制攻撃、核兵器の保有から使用に至るまで全ての選択肢が含まれる。この問題は我国の独立に直結している。〈平和国家〉や〈唯一の被爆国〉といった理念や事情はこれを超えるものではない。

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by hishikai | 2009-06-18 12:18 | 憲法・政治哲学
2009年 06月 16日
バランス・オブ・パワー
e0130549_23283458.jpg第28代アメリカ合衆国大統領W.ウィルソンはバランス・オブ・パワーを、人民の利益を無視して政治的都合から国家をチーズのように切り分け、なおかつ戦争を引き起こして平和を破壊する邪悪な政治原則だとして嫌悪した。バランス・オブ・パワーに対する彼の認識は、ある意味で正しく、ある意味で誤っている。

主権領土国家こそが国際組織体の中で最も支配的な形態なのだということが公式化された1648年のウェストファリア条約以来、今日までの歴史はまさに戦争の歴史であった。その中で例えばポーランドは十八世紀から1939年までに四度チーズのように切り分けられた。この意味でW.ウィルソンの認識は正しい。

だが国際社会に軍事力を背景とする行動の全てを邪悪だとする統制は倫理的にも法的にも存在しない。また国家がバランス・オブ・パワーの原則を自らの政策判断に含めようとするのは、平和を維持するためではなく、独立を維持するためである。この意味でW.ウィルソンの認識は誤っている。

ここからバランス・オブ・パワーを考える上での二つの基本的な前提が見えてくる。(1)国際政治の構造は無政府的国際システムである(2)国家は自らの独立を至高のものとみなす。これである。国際社会について現実的な立場から何事かを考えるならば、この二つの前提を忘れるべきではない。

e0130549_11552872.jpgその上でバランス・オブ・パワーはアンダー・ドッグ(負け犬)を助けよと教える。トップ・ドッグ(勝ち犬)を助ければ、トップ・ドッグはいずれ向き直ってこちらを食おうとするかも知れない。諸国家は弱そうな方に味方する。これがバランス・オブ・パワーの政策的な原則である。パワーの不均衡は危険なのだ。

1941年にA.ヒトラー率いるドイツがソ連に侵攻したとき、イギリスの首相W.チャーチルはこれまで罵倒の相手だったスターリンと同盟すべきであるとしてこう語った。「もしヒトラーが地獄に侵攻するならば、私は悪魔についての褒め言葉を下院で述べてもよい」バランス・オブ・パワーの考え方を示す一例である。

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by hishikai | 2009-06-16 00:06 | 憲法・政治哲学
2009年 06月 14日
過剰な献身
e0130549_1305486.jpg然るに『罪と罰』を読んだ時、あたかも曠野に落雷に会うて眼眩(くら)めき耳聾(し)いたる如き、今までにかつて覚えない甚深の感動を与えられた。こういう厳粛な敬虔な感動はただ芸術だけでは決して与えられるものでないから、作者の包蔵する信念が直ちに私の肺腑の琴線を衝いたのであると信じて作者の偉大なる力を感得した。(二葉亭余談/内田魯庵)

明治二十四年にドストエフスキーの『罪と罰』を初めて読んだ感動を、内田魯庵は上のように回想している。それにしても「落雷に会うて眼眩めき耳聾いたる如き」とはいささか大袈裟のようだが、これは単に小説への感動だけでなく、日本人がこの列島に二千年暮して初めて出会う思考への驚きで無理もない。

e0130549_13361941.jpgだが源氏物語にしろ里見八犬伝にしろ我国の伝統的文芸に登場する廉潔優美な人物たちが前近代の幼稚な造形であるとするならば、平凡で不完全な主人公に現実社会の奈落と人間心理の暗黒を歩かせるドストエフスキーの文学に登場するラスコーリニコフのような病的気鬱の人物たちは近代の不健康な造形である。

そして──直感的な言い方に過ぎるかも知れないが──その不健康は日露戦勝以後の自然主義文学とプロレタリア文学運動、あるいは日本主義と大アジア主義に見られる精神の不健康と同じ臭いがする。それは観念生活が実生活以上に現実的であるという感覚に憑かれた人間タイプ、あの「インテリゲンチャ」の臭いである。

《インテリゲンチャに共通しているのは、彼らが自分は単に思想への関心以上の何ものかを抱いていると考えていることだ。世俗の人間であるとしても生涯を捧げた僧侶にも劣らぬ存在で、福音の使徒のように人生に対する或る特殊な態度をひろめることに献身していると考えている。》(ロシア思想者論/I.バーリン)

そういう過剰な献身からくる不健康が、大東亜戦争の敗戦と深い場所で手を繋いでいるように思われる。ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』のイワンに「ヨーロッパの思想的仮説がロシアの青年にかかると生活の原理になってしまう」という台詞を言わせている、その痛ましい土壌は我国も同じである。

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by hishikai | 2009-06-14 01:54 | 文学
2009年 06月 12日
おとぎの国の倫理学(抄録)
おとぎの国では「法則」という言葉は使わない。ところが科学の国では、みんなこの言葉が特別お気に入りのようである。たとえば、今は死に絶えた昔々の人びとがアルファベットをどう発音していたか、面白い仮説を作って「グリムの法則」と呼んでいる。

しかし、グリムのおとぎ話のほうが、グリムの法則よりはよほど理屈として筋が通っている。お話のほうはともかくも話であるが、法則のほうは実は法則でも何でもない。いやしくも法則と言うからには、一般化ということの本質と、法則化ということの本質を正確に知っていなければならないはずである。

たとえばこれが、スリは牢屋に入れるべしという法律の場合なら、話はなるほどよくわかる。スリをするという観念と、牢屋に入るという観念との間には、なるほどある種の精神的関連のあることはわれわれにも理解できる。人の物を自由にする奴は、なるほど自由にはさせておけぬ道理である。

けれども、なぜ卵がヒヨコになるかというような問題になると話は少々変ってくる。この問題は、なぜ熊が王子に変ったかという問題と同じくらいむずかしい。純粋に観念として見るならば、卵とヒヨコの関係は熊と王子の関係よりもっと無関係である。卵にはヒヨコを連想させるものは皆無であるのにたいして、王子の中には熊を連想させる例もなくはないからだ。

さてそこで、ある種の変身というものが現に起こることは認めるとしても、大事なことは、おとぎの国の哲学的方法によってこの変身を見ることである。科学といわゆる自然法則の、まことに非哲学的方法によって見ることは断じて許されない。

では、なぜ卵は鳥になり果実は秋に落ちるのか。その答は、なぜシンデレラの鼠が馬になり、彼女のきらびやかな衣装が十二時に落ちるのか、その答とまったく同じである。魔法だからである。「法則」ではない。われわれにはその普遍的なきまりなど理解できないからである。必然ではない。

なるほど実際には必ず起るだろうと当てにはできるが、しかし絶対に起らねばならぬという保証はまったくないからである。普通はそういうことが起るからといって、それがハックスリーの言うような不変の法則の証明だということにならぬ。われわれはそれを当然のこととして当てにすることはできない。

われわれはそれに賭けているのである。おやつに食べるパンケーキには、いつ毒が入っていないともかぎらない。巨大な彗星がやって来て、いつ地球を粉々にしないともかぎらない。たとえその確率がどれほど小さくても、ともかくわれわれはいつでもその危険を冒して生きているのだ。

e0130549_1150986.jpgいつ奇蹟が起こって、当たり前のことが当たり前のことでなくならないとは誰にも断言できはしない。どんなに小さな確率でも、われわれがいつもその危険に賭けていることは変わらない。われわれが普段はそれを考えないで暮しているのは、それが奇蹟であり、したがって起こりえないことであるからではなくて、それが奇蹟であり、したがって例外にほかならないからなのである。

科学で使う用語はみな「法則」にしろ「必然」にしろ、「順序」にしろ「傾向」にしろ、すべて本当は意味をなさぬ。みな内的な連関、統一を前提にした言葉だが、われわれにはそういうものは本当に理解はできないからである。自然を説明する言葉として、私が納得できた言葉はたった一つしかない。おとぎ話で使う言葉だ。つまり「魔法」という言葉だけである。

(『正統とは何か』より「おとぎの国の倫理学」抄録/著:G.K.チェスタトン/訳:福田恆存 安西徹雄)

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by hishikai | 2009-06-12 14:46 | 資料
2009年 06月 11日
二葉亭の自問
e0130549_3541338.jpg二葉亭四迷は悲劇の人であるという。そうだとしても彼の人生が悲劇なのは、彼が新聞社の通信員としてペテルブルグに赴き、生活の経済苦に悩み、肺病を患い、祖国の家族宛てに遺言状を書き、シベリア鉄道に乗る体力もなく、南回りで帰国する途中のベンガル湾上で眠るように死んだからではないと思う。

彼を有力な文学者であり思想人と認めるならば、彼の人生の悲劇は、彼がその七転八倒の生涯の果てに掴んだあの自問、『平凡』の中に書いたあの自問の意味を、その後の日本人、特に文学者や思想人が理解しなかったことにあると云うべきではないか。その自問を積極的に展開すれば次のO・シュペングラーの文章にもなる。

《行為者、即ち運命の人間だけが結局のところ、現実の世界に生活するからである。これは政治的な、戦闘的な、また経済的な決断の世界であり、そこでは概念や体系は数に入らないのである。そこでは巧みな斬り込みは巧みな結論よりも価値がある。

そして世界史は智能のために、科学のために、または芸術のために存在すると考えた三文文士や紙食虫を、あらゆる時代の軍人と政治家とが軽蔑していたが、その軽蔑には意味がある。我々はそれをはっきり言う。感覚から離れた理解は人生の一面に過ぎないで、しかも決定的側面ではない。》(西洋の没落/O・シュペングラー)

二葉亭以後の人々は考え方の射程を長く取り過ぎたのではないか。長い棹で星を採ろうとして挫折し、政治と芸術、物質と精神を久遠の対極と諦めた。その諦めが政治主義の殺伐と芸術至上の無気力を生んだのではないか。むしろ長い棹など使わずに手許のコインを裏返してみれば、そこに星が映っていたかも知れないのに。

それが二葉亭の云う「物質界と表裏して詩人や哲学者が顧みぬ精神界」で、自然主義文学運動が個人生活の告白に固執し、プロレタリア文学運動が文学を民衆教化の道具とするに固執して、どちらも社会的広がりを喪失したことは、物質界と表裏して在る精神界を考えない人々の、青白くも当然の結果ではなかっただろうか。

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by hishikai | 2009-06-11 04:04 | 文化