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2009年 08月 31日
『焼跡のイエス』について
e0130549_1220556.jpg石川淳、昭和二十一年の作品『焼跡のイエス』は、敗戦国日本の闇市をカンバスとして、大声をあげて食い物を売り、あるいは食欲の機械となってこれに群がる人々と、その人々の間を無言で駆け抜ける獣のような少年とを対比して描く。

いまや「君子国の民というつらつきは一人もみあたらず」人々は「モラル上の瘋癲、生活上の兇徒」である。「天はもとより怖れる」ところではない。しかしながら劣情旺盛取引多端は旧に依って忙しく、その行動は「今日的規定の埒外には一歩も踏み出してはいない」

そのような人々の間を駆け抜ける瘡のある少年は、蠅のたかった握飯に食らい付き、シュミーズ姿の女に抱きつく。その無言の暴力は一つ一つが命令のような威厳を持ち、あたかも彼は律法の上に立つ者の如くである。その姿に接した人々の心に悲鳴に似た戦慄が波を打つ。

人々と少年の対比は「大審問官」を思わせる。大審問官はイエスが人々に与えた自由を強者の特権だと責め、自分は弱者から自由を取りあげる代わりにパンを与えている、この哀れみこそが真の救済なのだと主張する。イエスは無言の同情と接吻でこれに答える。

大審問官の雄弁な哀れみは人々の食い物を売る大声に、イエスの無言の同情と接吻は少年による無言の暴力に、それぞれ裏返っているが同じものを表す。そして常に同情は哀れみを超える。そのことは人間世界の問題が同情の側にあることを示す。

哀れみの為政者は人々を弱者として扱い、自由と引き換えにパンを与え、政治の道具として組織する。人々もまた弱者であることを自認し、自由と引き換えにパンを押し頂いて政治を思考する。このとき人間世界の問題全てが哀れみの問題、政治の問題であると錯覚される。

そうして一般化できない個々の問題の集積としての人間世界、それら全てが特殊な問題の集まりで、したがって必要なのは同情であって、自分以外の誰かが拠出するであろう富をあてにした哀れみ、つまり政治よる分配ではないことが人々から忘れ去られていく。

だが人間世界の問題はイエスの無言の同情の中にある。その背後に広がる苦悩の闇は、時として暴力となって現れるかも知れないが、しかしそれは政治の唱える哀れみよりも遥かに人間世界の本質に接近している。人々が戦慄したのはその事実を少年の姿に見たからである。

同じく国の文化──日本書紀も、万葉集も、古今集も、源氏物語も、平家納経も、太平記も、近松心中も、そして大東亜戦争の諸戦記も、全ては闇の中に納められている。だから私たちは国のこととして政治よりも先に、歴史を云い、伝統を云い、文化を云う。

石川淳は「作品は常に闇の戸口から始まる。そしてその終わるところもまた闇の中でしかない」と書いた同じ筆で、野獣のような暴力で自分から金を奪おうとして取り押さえた少年の顔が「苦患にみちたナザレのイエスの、生きた顔にほかならなかった」と書いた。今日では逆説となってしまったその思考を、私たちが再び取り戻す日は来るのか。

『ピエタ』ミケランジェロ 1499年ごろ

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by hishikai | 2009-08-31 13:11 | 文学
2009年 08月 27日
『革命について』(「大審問官」への解釈)
e0130549_9281798.jpg フランス革命の別の非理論的な側面を扱った古典的物語、つまり、フランス革命の主役たちの言葉と行為の背後に潜む動機の物語は「大審問官」であり、そのなかでドストエフスキーは、イエスの無言の同情と審問官の雄弁な哀れみを対照的に扱っている。同情とは、まるで伝染でもするかのように他人の苦悩に打たれることであり、哀れみとは、肉体的には動かされない悲しさであるから、両者は同じものでないだけでなく、互いに関連さえもないのであろう。同情は、それ自体の性格からいって、ある階級全体、ある人民、あるいは──もっとも考えられないことではあるが──人類全体の苦悩に誘発されるものではない。それは独りの人間によって苦悩されたもの以上に先に進むものでなく、依然としてもとのままのもの共苦にとどまっている。その力は情熱自体の力に依存している。すなわち、情熱は理性とは対照的に、特殊なものだけを理解できるのであり、一般的なものの概念を持たず、一般化の能力も持たない。大審問官の罪は、彼がロベスピエールと同じように「弱い人々に引き寄せられた」という点にあった。なぜそれが罪かといえば、このように弱い人々に引き寄せられるということが、権力への渇望と区別することができないからであり、のみならず、彼は受難者たちを非人格化し、彼らを一つの集合体──いつも不幸な人々、苦悩する大衆等々──へとひとまとめにしたからである。ドストエフスキーにとって、イエスの神聖のしるしは、万人に対する同情を、一人一人の特殊性において、すなわち、彼らを苦悩する人類というようなある実体に総括することなく持ちうる彼の能力のなかにはっきりと現れていた。その神学的な意味は別として、この物語の偉大さは、もっとも美しく見える哀れみの理想主義的で大袈裟な文句が同情と対決するとき、いかに空虚に響くか、それをわれわれに感じさせる点にある。
 この一般化できないということと密接に結びついているのは、徳の雄弁と対照的に、善のしるしである奇妙な無言、あるいは少なくとも言葉に対する戸惑いである。それは哀れみの多弁さに対する同情のしるしである。情熱と同情は言葉を持たないのではなく、その言葉は言葉よりもむしろ身振りや顔の表情から成り立っているということである。イエスが沈黙し、大審問官の延々と続く独白の淀みない流れの背後に潜む苦悩にいわば打たれていたのは、彼がその敵対者の言葉に同情をもって耳を傾けていたからであって、言うべきことがなかったからではない。この耳を傾けるという行為の強烈さによって独白は対話に変るが、それは言葉ではなく、身振り、接吻の身振りによってのみ終わりとなる。(中略)そして徳が、不正をなすよりは不正を耐え忍ぶほうが良いということをいつも主張しようとしているとすれば、同情は、他人の受難を見るよりは、自分が苦しむことのほうが楽であると、まったく真剣に、時にはナイーヴにさえ見えるほど真剣に述べ、それによって、徳の主張を乗り越えるのである。
 同情は距離を、すなわち政治的問題や人間事象の全領域が占めている人間と人間のあいだの世界的空間を取り除いてしまうので、政治の観点からいえば、同情は無意味であり何の重要性もない。(中略)同情はただ情熱的な激しさで苦悩する人そのものにむけられる。同情が語るのは、それによって苦悩がこの世界で耳に聴こえ眼に見えるようになるところの、まったく表現主義的な音や身振りに対して直接答えなければならないその範囲だけである。一般に、人間の苦悩を和らげるために世界の状態の変革に乗り出すのは同情ではない。しかも同情が変革に乗り出す場合でも、それは法律や政治のような、説得とか話し合いとか妥協のようにだらだらと続く退屈な過程を避け、その声を苦悩そのものに向けるだろう。ひるがえって苦悩は、迅速で直接的な活動、すなわち、暴力手段による活動を求めるはずである。(H・アーレント/『革命について』より抜粋)

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エッチング:K・コールウィッツ 1899年

by hishikai | 2009-08-27 03:44 | 資料
2009年 08月 25日
「大審問官」
e0130549_9362025.jpg彼は指を差しだし、その者を召し捕れと護衛たちに命じた。…護衛たちは囚人を神聖裁判所の古い建物のなかにある、狭くて陰惨な丸天井の牢獄に連れていき、そこに閉じ込める。…深い闇のなかでふいに牢獄の鉄の扉が開かれ、手に燭台をたずさえた老審問官がゆったりと中に入ってくる。…やがて静かに歩みより、燭台をテーブルに置いて彼に言うのだ。

「で、おまえはあれか? あれなのか? …答えなくともよい…そうとも、おまえは、むかし自分が言ったことに何ひとつ付けくわえるべき権利を持ってはいないのだ。…おまえが地上にあったときにあれほど擁護した自由を人々から奪うこともできない。おまえがふたたび告げることはすべて、人々の信仰の自由をおびやかすことになるのだ。…それでもわれわれはこの仕事を、最後までやり遂げたのだ。おまえのためだ。十五世紀間、われわれはこの自由を相手に苦しんできたが、いまやその苦しみも終わった。…知るがいい。…彼らは自分からすすんでその自由をわれわれに差しだし、おとなしくわれわれの足もとに捧げた。…なぜなら人間にとって、人間社会にとって、自由ほど耐えがたいものはいまだかつて何もなかったからだ! …ところがおまえは、人間から自由を奪うことを望まずに、相手の申し出をしりぞけてしまった。なぜなら、もしその服従がパンで買われたなら、何が自由というのかと考えたからだ。で、おまえは、人間はパンだけで生きているのではないと反論したわけだ。…しかしわかっているのか。…お前は知っているのか。何百年の時が流れ、人類はいずれ自分の英知と科学の口を借りてこう宣言するようになる。…『食べさせろ、善行を求めるのはそのあとだ!』…おまえの神殿の跡地には新しいバベルの塔がそびえ立つのだ。…そのとき、このわれわれが彼らの塔を完成させてやるのだ。…そう、人間どもはわれわれなしでは絶対に食にありつけない。彼らが自由でいるあいだは、どんな科学もパンをもたらしてくれず、結局のところ、自分の自由をわれわれの足もとに差しだし、こう言うことになる。『いっそ、奴隷にしてくれたほうがいい、でも、わたしたちを食べさせてください』こうして、ついに自分から悟るのだ。自由と、地上に十分ゆきわたるパンは両立しがたいものなのだということを。…非力でどこまでも罪深く、どこまでも卑しい人間という種族の目から見て、天上のパンは、はたして地上のパンに匹敵しうるものだろうか? それに、もし天上のパンのためにおまえのあとから何千何万という人間どもがついていくとしても、天上のパンのために地上のパンをないがしろにできない何百万、何千万というほかの人間たちはどうなるのか? それとも、おまえにとって大事なのは数万人の大いなる強者だけで、残りの何百万人、それこそ浜辺の砂のような無数の、たしかにお前を愛してはいるが弱者である人間たちなどは、大いなる強者たちのための人柱に甘んじるしかないというのか? …いや、われわれには弱者も大事なのだ。彼らは罪にまみれた反逆者ではあっても、最後にはそういう彼らも従順になる。…われわれからパンを受け取るさい、彼らははっきりと目にする。われわれが彼らの手で収穫されたパンを取りあげるのは、どんな奇跡もなしに彼らに分配するためだということを。…そうとも、われわれは彼らを働かせはするが、労働から解き放たれた自由な時間には、彼らの生活を、子供らしい歌や合唱や、無邪気な踊りにあふれる子供の遊びのようなものに仕立ててやるのだ。…われわれは彼らにこう言ってやる。かりに、われわれの許しを得て犯された罪であるなら、どんな罪でもあがなわれる、と。…妻や愛人を持つことも、子供を持つか持たないかも、すべてわれわれが、彼らの従順さの程度にかんがみて許可もすれば禁止もする。…そして彼らの幸せのために罪を引き受けたわれわれは、おまえの前に立ってこう言う。『できるものなら、やれるものなら、われわれを裁くがいい』と。」

審問官は口をつぐむと、囚人が自分に答えてくれるのしばらく待つ。…囚人は自分の話を終始感慨深げに聴き、こちらを静かにまっすぐ見つめているのに、どうやら何ひとつ反論したがらない…ところが彼は無言のままふいに老審問官のほうに近づき、血の気のうせた九十歳の人間の唇に、静かにキスをする…これが、答えの全てだった。(ドストエフスキー/『カラマーゾフの兄弟』〈亀山郁夫訳〉より「大審問官」抜粋)

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by hishikai | 2009-08-25 02:10 | 資料
2009年 08月 24日
『焼跡のイエス』
e0130549_9571097.jpg昭和二十一年七月晦日、炎天下の土ほこりにむせかえる上野ガード下の闇市。焼跡から自然に湧き出たような生き物たちが大声で食い物を売り、往来をゆくこれもまた有象無象どもがその声に応じてしわくちゃの十円札を投げ出し不潔な食い物にかぶりついている。

と、突然姿を現した芥と垢にまみれてどす黒い肌の頭から顔にかけ得体の知れぬデキモノにおおわれた少年が、一つの露店に飛び込み蠅のたかる握り飯に噛みつき、その素早さのまま今度はシュミーズで店番をしている若い女の驚いて立ち上がろうとする足に抱きつく。

女は悲鳴をあげて振り払おうとするが少年は離れない。半ズボンに兵隊靴をはいた市場の見回りらしいのが駆けつけるが、少年の異様な風態を怖れて引き離すことができない。やがて少年と女は煙草に火をつけようとしていた私にぶつかり、三人はもんどりうって倒れ込む。

私がやっと起き上がったときすでにに少年の姿はなく、女は煙草の火でシュミーズに穴があいた私を罵り、取り囲む人だかりは殺気立っている。私はあの瞬間に女の柔らかそうな肌に抱きつきたいと願った自分の色情を見透かされたような気がして夢中で市場を逃れる。

気をしずめて上野の森を歩き、私の今日ここへ来た目的は谷中のある寺に拓本を採りに行くことだと思い返しながら、ふと後ろを振り返ると先刻の少年がこちらに向かって歩いてくる。しばらく歩き再び振り返ると、やはり少年が、今度はぐっと距離を縮めて追ってくる。

決心をした私が東照宮の境内に入り振り向くその途端、少年が猛然と襲いかかって来る。悪臭にむせかえりながらの格闘。そして、ようやうのことで意外に滑らかな肌理をした少年の腕を押さえつけ地面に組み伏せると、私は一瞬にして恍惚となるまでに戦慄する。

「わたしがまのあたりに見たものは、少年の顔でもなく、狼の顔でもなく、ただの人間の顔でもない。それはいたましくもヴェロニックに写り出たところの、苦患にみちたナザレのイエスの、生きた顔にほかならなかった」(石川淳/『焼跡のイエス』)

翌日闇市は取り払われ、昨日まで露店がずらりと並んでいたあとには、ただ両側にあやしげな葭簀張りの小屋が閑散として残るばかりで、そのきれいに掃きならされた土の上に何やら物の痕の印されているのが、あたかも砂漠の上に踏み残された獣の足跡のように見えた。

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by hishikai | 2009-08-24 10:11 | 資料
2009年 08月 18日
親泊朝省
e0130549_2382811.jpg保元元年(1156)いわゆる保元の乱で、崇徳上皇の招に応じた源為朝は敗れ近江で捕えられたが、斬らるべき運命を後白河帝に赦され伊豆大島に流された。やがて為朝は旧臣らと共に琉球へ渡り、此の地で豪族の妹を妻として男児をもうけ、その子が後の舜天王となり尚王朝の祖となったことは琉球正史『中山世鑑』の伝えるところである。

それから七百年後の明治三十六年(1903)著名な教育者であった親泊朝擢(おやどまり・ちょうたく)の子、親泊朝省(ともみ)は尚王朝の一族として先祖と同じく「朝」の一字を継いで沖縄に生まれた。幼い頃より読書が好きで作文を得意とした温順な少年は、自ら一念発起して熊本陸軍地方幼年学校へ入学した。

親泊朝省はここで終生の友となる菅波三郎と出会う。二人は同じ熊幼出身生徒として三ヶ年の後には、共に東京市ヶ谷の陸軍士官学校へ進み、大正十二年(1923)陸軍士官学校予科を卒業した。その後、親泊は羅南の騎兵第二十七聯隊第二中隊に士官候補生として入隊。そこで中隊教官を努める西田税(みつぐ)少尉を知る。

「羅南には素晴しい先輩がいる。是非君に会わせたい人だ」その頃、鹿児島の歩兵第四十五聯隊にいた菅波三郎に届いた親泊の手紙には、西田税の名が誇らしげに記してあった。それから二年後の大正十四年、陸軍士官学校本科を首席で卒業すると再び羅南の原隊に復帰。昭和五年には菅波三郎の妹英子を妻に迎えた。

昭和六年(1931)満州事変勃発に伴って出征し翌七年、南満州錦西城で張学良軍に包囲された第二十七聯隊本部を奪還。聯隊長が戦死という激戦の中で小隊を率いて本部へ突入して軍旗を護る。昭和十年、長女靖子誕生。昭和十一年、二二六事件。軍当局による一審即決の裁判により西田税は死刑。菅波三郎は禁錮五年の刑を受けて軍を追われた。

騎兵少佐に進んだ昭和十四年、陸軍大学校専科に進み翌十五年に卒業すると広東方面に展開する第三十八師団の作戦主任参謀に就任。この年、長男朝邦誕生。昭和十六年、大東亜戦争勃発。第三十八師団は香港攻略戦に従い、次いでジャワ攻略戦、十七年秋には米軍の反攻が本格化したガダルカナル島にその鉾先を転じた。

極端な糧食の不足と疫病の蔓延により損耗の激しいガ島守備隊は翌年二月に撤収。そのとき迎えの艦船に乗り込む守備隊兵士の、あるいは杖にすがり、あるいは軍刀を突き、あるいは戦友相扶け、あるいは戦友の背に負われ疲弊した姿に、迎えの兵士たちは男泣きに泣いた。親泊朝省も見る影もなく痩せ衰えていた。

大本営情報部勤務を命ぜられ昭和十八年秋、東京に帰来。民間の報道機関に戦況を報知する任務に従事するも「軍の機密保持のため、実際の戦況を国民に報道することができない。心の中では申し訳ないと詫び続けている。ほんとうに辛い職務だ」と羅南時代の部下に洩らしていた。そして昭和二十年、終戦。

同年九月三日早朝、目黒の菅波三郎宅に親泊の隣家なる米屋が駆けつける。──「親泊様、御一家御一同御自害、相果てられました」──菅波は小石川の親泊宅へ急行する。玄関の扉を排して二階へ駆け上がると、八畳間に盛装をした親子が四人、右から朝省、英子、靖子、朝邦の順に並び、朝の光の中で眠るように息絶えていた。

軍服の朝省と盛装をして薄化粧の英子は拳銃でこめかみを射ち抜き、十歳の靖子と五歳の朝邦は青酸カリを呑んでいた。菅波の発見は三日であったが自決はその前日、九月二日であったかも知れない。だとすれば、それはミズーリ艦上で大日本帝国の降伏文章調印式のあったその日、また『中山世鑑』の伝える源為朝が近江で捕えられた、その日である。

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by hishikai | 2009-08-18 23:25 | 大東亜戦争
2009年 08月 14日
雑考三題
e0130549_10404679.jpgモツ焼屋でハイボールを飲む。お盆だというのに客が多い。古い店には不似合いな白い蛍光灯に蛾が一匹とまって、その下で扇風機がブーンと唸って首を振る。カウンターに若いサラリーマンの一団。その中の一人がワイシャツの袖をまくりながら「僕は小泉純一郎も竹中平蔵も嫌いです。彼らはついに責任をとらなかった」と云う。悲憤慷慨の様子。

深夜帰宅して野坂昭如の『「終戦日記」を読む』を読む。《近衛、鈴木、米内、阿南、十日から十四日までの、胸のうちは計り難い。御聖断という形に委せ、各自が、責任をとらなかったことは確かであろう》の一文が目を引く。近衛さんと阿南さんは自殺している。仮に彼らが生きて奮闘しても、それで責任をとったと人は云うだろうか。責任とは一体何か。

                    ◆

『火垂るの墓』は一度観て、もう観ないことに決めた。理由は自分でもよくわからないが、どうもいけない。もう亡くなったが私の義父があの世代で、彼もあれを観なかった。理由を尋ねたこともなければ、話すこともなかったが、ただテレビで偶々あれがかかると、彼は黙ってチャンネルを回してしまう。以下は野坂昭如が自身の妹の死について書いた一文。

春江で、新聞、ラジオ、大人と無縁の生活をしていたぼくは、そのような世間の動きすら、知らない。変化といえば、ぼくの妹が餓死したこと。妹の無惨非業の死を悲しみはしない。重荷から解放された気分が強い。妹の遺体を、猛々しく葉先をのばす、一面水田の中の、五坪ほどの石のカマドで荼毘に付した。(野坂昭如/『「終戦日記」を読む』)

                    ◆

昭和二十年八月十五日に天皇陛下の御放送があり、その後、日本人は変わったという。二十八日に占領軍が進駐し、その半月後に言論統制が始まり、十二月に「太平洋戦争」という呼称が使われる。ジャーナリズムはそれら占領政策と歩みを一つにして、軍閥の腐敗、大本営発表の虚偽、精神主義の愚劣を書き立て、やがて日本人は一億総民主主義者となる。

それら民主主義者はどこから来て、それまでどこにいたのか。あるいは天から降り、あるいは地から湧いたのか。占領政策の影響もさることながら、日本人には省みるべき軽佻があり、浮薄があるのではないか。今もそれは同じで、最近の世論調査やインターネットに表れる強烈な民主党支持者たちは、一体どこから来て、それまでどこにいたというのであろうか。

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by hishikai | 2009-08-14 22:00 | 大東亜戦争
2009年 08月 12日
『海底のやうな光』
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 朝や黄昏など、特に風景の美しかつた太田川の下流、私どもの住んでゐた町の土手から降りて行く河原に火事をさけてすごした六日、そして七日と八日、その間に見た現実は、この世のほかの絵巻であった。私はそれを凄惨だつたとは思ひたくない。危険と忍耐と、純粋な民族感への満ち足りた感情との三日間乞食のやうに河原に起き伏した短い日、私たちはどんな貴族よりも高い精神のなかに呼吸してゐた。死骸と並んで寝ることも恐れぬ忍耐の限度を見た。おびただしい人の群のたれも泣かない。誰も自己の感情を語らない。日本人は敏捷ではないが、極度につつましく真面目だといふことを、死んで行く人の多い河原の三日間でまざまざと見た。
(中略)
 七日になつて河原に来た救護班の手当てをうけた。この日になつて昨日の異様な空襲が、新兵器のはじめての使用であつたことをきいた。七日の夜から八日の朝、また昼にかけて人々はばたばたと倒れた。七日の夜は朝まできれいな東京の言葉で「お父さまアお母さまアーいいのよウーいいのよウ。おかへりあそばせエー」と絶叫しつづける若い娘の声が聞えた。「気がちがつたのね」私たちは涙を流しとほした。
 新兵器の残忍性を否定することは出来ない。だが私は精神は兵器によつて焼き払ふ術もないと思つた。あの爆弾は戦争を早く止めたい故に、使つた側の恥辱である。ドイツが敗北した。ドイツを軽蔑できなかつたと同じに、あの新型爆弾といふものを尊敬することはできない。広島市の被害は結果的に深く大きいけれど、もしその情景が醜悪だつたならば、それは相手方の醜悪さである。広島市は醜悪ではなかつた。むしろ犠牲者の美しさで、戦争の終局を飾つたものと思ひたい。

(大田洋子 著/『海底のやうな光──原子爆弾の空襲に遭つて』「朝日新聞」昭和二十年八月三十日)桶谷秀昭 著『昭和精神史』より引用

写真:長崎に投下された原子爆弾〈Fat Man〉によるキノコ雲

by hishikai | 2009-08-12 07:50 | 大東亜戦争
2009年 08月 10日
社会について
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私が、一九七九年に留学先のドイツからイギリスのボーンマスを訪ねたのは、ちょうど保守党のマーガレット・サッチャーが労働党から政権を奪還したときのことでした。彼女の有名な言葉に、「社会というものは存在しない。存在するのは個人だけだ」というものがあります。当時、私はそれを聞いて、とても違和感を覚えましたし、強い反発心が起きました。(姜尚中 著/『希望と絆』より)

社会というものは存在しないという言い方が、日常の感覚に照らして違和感のあることは分かる。しかしM・サッチャーの言葉が自由主義思想の理解の上に成り立っているとすれば、その意味するところは概念や意識の産物を客観的に存在する実体であるかのように考えることへの警鐘である。

近頃よく耳にする「社会全体が子供を育てる」という言葉にしても、この「社会」が具体的には物体でも精神でもなく、かといって事務局や窓口を持った組織でもないことは明白である。また補助金による育児支援にしても実像は政府による富の再分配で、実体として存在する社会が意思を持って育児を引き受けてくれるわけではない。

だからと言って社会が全く無いというのでもないが、しかしながら、それは個人が千差万別の目的や価値観に従って行動する結果として浮かび上がる秩序の全体を指す概念としてあるのみである。それは実体として存在する個人という無数の点が描き出すパターンである。それら個人の行動は理性で特徴づけられるのではなく、慣習により特徴づけられている。

例えば今、私は朝の散歩をしている。向こうから来た人が「おはようございます」と挨拶をすれば、私は「おはようございます」と答える。しかし、私は「おはようございます」の根拠を知らない。何時、誰が、どのような理由で始めたのかも知らない。ただ私が知っているのは、昔から伝えられてきたやり方のみである。私の行動は慣習に特徴づけられている。

この根拠を問うことなくやり方だけを知っている慣習に特徴づけられた個人が、千差万別の目的や価値観に従って行動する、その結果として浮かび上がるパターンであるところの社会。それは自然による発生ではなく、人為による設計でもない。人間的でもなければ非人間的でもない。当然のことながら「支え合いの仕組み」などという単純なものでもない。

そのような社会に政府が特定の目的を実現するためのデザインをもって介入すれば、必ずその企図から漏れる領域が生じる。ならばと新たなデザインをもって再び介入すれば、再び企図から漏れる領域が生じる。ならばと新たなデザインを……と介入は無限の連鎖となって当初の意図から大きく逸脱する。これら一連の事柄について、ある論者は次のように言う。
われわれは社会の存在を信じ込まされてきた。社会は生きているものとして、あるいはむしろ活発に活動しているものとして示されてきた。社会と個人の関係は全体と部分の関係であり、社会は一定の目的に従って行動する存在物、しかも個人が自身の特定利益を犠牲にしなければならない存在物として示されてきた。近代のわけのわからない政治用語はこれらの迷信を反映している。(P・ルミュー)


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by hishikai | 2009-08-10 14:06 | 憲法・政治哲学
2009年 08月 06日
姜尚中を読む
e0130549_14164437.jpg姜尚中の『希望と絆』(副題:いま、日本を問う)には、概ね次のようなことが書かれている。現在日本の自殺者数は先進国でも抜きん出て多いが、人々はその事に無関心である。そこから分かるように、現在の人々は他人の痛手に目配りができないでいる。また、それについては韓国も同じような様相を呈している。

それはサッチャー政権からレーガン政権へと受け継がれ、日本では小泉政権、韓国ではIMF危機以降に押し進められた市場原理主義が社会を傷めたからである。社会とは「絆によって結びついた人々の支え合いの仕組み」である。人と人とが支え合わなければ、個人は生きることができない。

にもかかわらず、市場原理主義は公共部門を私的部門へ移転することで、この支え合いの仕組みを自由競争と自己責任へ置き換えてしまった。つまり国や公共部門が負担すべきリスクを個人に負担させ、結果として個人はその負担に耐えられなくなっているのである。

市場原理主義、さらに広く言えば、近代やグローバリゼーションというものは、おびただしい数の人々の犠牲の上に成立している。しかしそういうものは、もうやめなければいけない。そのためには「あまりにひどい」「かわいそうだ」という常識から、ものごとの正当性を改めて問い直さなければならない。

ということだが、このような姜尚中の主張は現在の多くの日本人が──その政治的立場を問わずに──共鳴するところではないかと思う。もっとも姜尚中自身は、大手マスコミが今でも市場原理主義擁護の言説を繰り返し、したがって自分の主張は少数意見であると考えているようだが、事実は正反対である。

いまや市場原理主義の排撃こそがマスコミを始めとして、自民党から民主党、保守から革新、キリスト教徒から仏教徒、犬から猫まで、日本全国に生きるあらゆる生命体の脳裏を占める主要な言論テーマである。それは要するに、社会を「支え合いの仕組み」と見るか、見ないかということで、明治以来の日本人がずっと格闘してきた問題に他ならない。

だが、この問題に向かい合う時に「市場原理主義」などという在りもしないイデオロギーを考えても答えは出ない。考えるべきは、社会を「支え合いの仕組み」と〈見ない〉近代国家というものと交わり、また自らも近代国家を受け入れながら、しかし一方で社会を「支え合いの仕組み」と〈見たい〉日本人の(あるいはアジア人の)内心の葛藤についてなのだ。西洋仕立ての背広は着心地が悪くて仕方がない、さりとて現実としては他に着るものがない、そのことへの子供のような「むずがり」に自覚的であるか否かなのだ。

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by hishikai | 2009-08-06 14:18 | 憲法・政治哲学
2009年 08月 04日
平泉澄のこと
e0130549_1625861.jpg丸山眞男は1938年に国史学担任であった平泉澄の授業を聴講し、後年その様子をこう述べている。新田義貞の後醍醐天皇への忠誠を話す時に澎湃(ほうはい)として涙をながすんですね(笑)、北畠親房と呼び捨てはダメ、必ず卿を付けねばいけない。皇室を中心にして忠臣と逆賊しかいない。「そういう『日本思想史』です」(笑)。

ここでの笑いは滑稽なものを眺める時のそれではなく、特高警察にビンタを喰らい、簑田胸喜ら国粋主義者に散々脅かされた記憶の、その〈無法者〉の価値観と、その源泉であるかのような学者を帝大の教授に据えた人々に対する深い軽蔑が笑いとなって現れたもので、場面としてはグロテスクでさえある。

こうした嘲笑には他者を否定する愉悦があり、聞く者も少しばかり利巧になった気がするために受入れられやすい。そして、その愉悦を噛み締めながら読むのが丸山眞男の魅力であろうが、しかしながら、それは人間の自然な感情を揺さぶる力を持たない。そのような力はむしろ嘲笑された平泉澄の、例えば以下に引用する文章に多く含まれている。

 昭和二十七年四月、占領は解除せられ、日本は独立しました。長い間、口を封ぜられ、きびしく監視せられていた私も、ようやく追放解除になりました。
 一年たって昭和二十八年五月二日、先賢の八十年祭に福井へ参りましたところ、出て来たついでに成和中学校で講話を頼まれました。その中学を私は知らず、中学生は私を知らず、知らぬ者と知らぬ者とが、予期せざる対面で、いわば遭遇戦でありました。講話は極めて短時間で、要旨は簡単明瞭でありました。
 「皆さん! 皆さんはお気の毒に、長くアメリカの占領下に在って、事実を事実として教えられることが許されていなかった。今や占領は終わった。重要な史実は、正しくこれを知らねばならぬ。」
 と説き起こして、二、三の重要なる歴史事実を説きました。その時の生徒の顔、感動に輝く瞳、それを私は永久に忘れないでしょう。生徒一千、瞳は二千、その二千の瞳は、私が壇上に在れば壇上の私に集中し、話し終わって壇を下りれば壇下の私に集中しました。見るというようなものではなく、射るという感じでした。
 帰ろうとして外へ出た時、生徒は一斉に外へ出て私を取巻き、私がタクシーに乗れば、タクシーを取巻いて、タクシーの屋根の上へまで這い上がって来ました。彼らは黙って何一ついわず、何一つ乱暴はしない。ただ私を見つめ、私から離れまいとするようでした。ようやくにして別れて帰った私は、二三日後、その生徒たちから、真情流露する手紙を、男の子からも、女の子からも、数通貰いました。私の一生を通じて、最も感動の深い講演でありました。

(平泉澄 著/『物語日本史』〈序〉より)


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by hishikai | 2009-08-04 16:33 | 大東亜戦争