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2009年 10月 23日
ジョン
e0130549_12252639.jpg箱根の旅行から帰った日、玄関に重い革のトランクを置いてやれやれと靴を脱ごうとすると、一足先に家に上がった妻が、まだ入ってはいけないと茶の間から云う。どうしてかと声をかけると、生きた雀がいる、どうやら猫が獲ってきたらしいと再び茶の間から云う。

仕方がないので玄関に腰を下ろして庭の萩を眺めていると、妻は箒を手に雀を追いかけていたようであったが、やがて悲鳴がしたので振り向くと、黒猫が横合いから急に飛びかかって雀を噛み殺してしまったと云い、おむすびを握るように手を上下に合わせて廊下に立っている。

その中に屍骸が入っているのかと問うと妻は黙って頷き、サンダルを引っ掛けて門から往来へと出てゆく。私が玄関の扉に手をかけて、どうするんだと今度は声高に問えば、どこかに埋めてくると云う声が往来の向こうへ遠ざかっていく。

だから動物は嫌なんだと呟きながら旅装を解いて一息つくが妻はなかなか帰ってこない。おかしいなと思っているところへ門の開く音がしたので、やあご苦労様と出てみれば、庭に立った妻の手には銀色の鎖が握られて、その先には見知らぬ茶色い犬が繋がれている。

おまえ、それはどうしたのかと問えば、鎖を引きずったまま歩いていたので可哀想だから連れて帰ってきたと答える。そんなものは家では飼えないぞと云えば、首輪に鑑札が付いているから飼い主は直ぐに見つかる、後で役所に電話するからと云って鎖を庭の椿に結んでしまった。

行き掛りの上からか動物好きの為す業か、翌日からの妻はいつもより早起きをして殆ど犬に引張り回されながら散歩をするやら、知合いに餌は何が良いか尋ねるやら、夜は玄関に毛布を敷いて寝かせてやるやら、したこともない犬の世話に大忙しであった。私は窓の隙間から時々観察する程度であったが、そんな時は犬も気付いて私をじっと見ていた。

そんなこんなで数日が過ぎた夕暮れ、妻が庭先で誰かと話している。声の主は家族連れであるらしく、ジョン、ジョンあゝよかったと云う。犬も吠えている。お世話になりましたとの声も聞こえ、そこに妻のいいえェホントによかったワと答える明るい声も交じっている。やがて門が閉まり、ガチャガチャという鎖の音と共に話し声が遠ざかる。

廊下に出てみると玄関に悄然として座り込む妻の姿があり、その傍らに謝礼に頂いたと思われる葱が数本、半ば開いた新聞紙の包みから青白い茎を覗かせている。近づいて、まあよかったじゃないかと声をかけると、数日前と同じように妻は黙って頷き、葱を丁寧に新聞紙に包みなおした。その夜、再び静かになった我家の膳に葱ぬたが上った。

by hishikai | 2009-10-23 13:37 | 日常
2009年 10月 13日
箱根
e0130549_2226610.jpg箱根山はカルデラ地形の火山である。中央に標高1438mの神山を最高峰とする山岳群がそびえ立ち、麓の各地で温泉が湧出して西側には芦ノ湖が鏡のような湖面を広げている。これを更に広大な外輪山がぐるりと取り囲み、南端は旧東海道の難所として知られる。

その中央山岳群の東麓が外輪山と接して峻厳な渓谷となる辺り、宮ノ下温泉郷に人々が訪れるようになったのは明治11年に福沢諭吉の勧めで山口仙之助がこの地に外国人用ホテルを開業し、なおも私財を投じて交通路を拓き、自家用発電施設を備えたことを嚆矢とする。

以来「富士屋ホテル」と命名されたそのホテルは、関東大震災を始めとする幾度の災害から復興し、あるいは大東亜戦争中の枢軸国側外交官への貸与、敗戦後の占領軍による接収という経営の困難を乗り越えて、今日もなお壮麗な姿を宮ノ下の深い森の中に沈めている。

その受付で宿泊手続きを済ませ、ようやく私が額の汗を拭ったのは箱根が観光客で賑わう十月の連休初日であった。一階のホールは胡桃色の梁が淡い琥珀の照明に染まった白壁を端正に区切り、凝った寄木床には重厚な調度品が置かれて秋の夕日に映えている。

ここの空気を支配しているのは何時の世でも迎賓館という施設が持つ不自然さで、それは我国の場合、富国強兵と殖産興業を信じた人々の発想する高級な休息、徳川封建の生活を色濃く残す庶民生活とは隔絶された雲上の価値観、その廃墟に残る甘美な停滞である。

部屋に荷物を置いた後で館内を歩きながらそんなことを想いながらもしかし、前述したように創業者一族と社員一同のこのホテルを存続させるために繰返した革新は尋常ではない。停滞と革新の二面性を単に矛盾と考えるならば伝統の継承を理解することはできない。

案内して呉れた韓国人の社員である趙君が「私は日本の歴史を深く知らないかもしれませんが、何処の国の何時の時代でも若い人が継ぐべき伝統があることは信じています。そのつもりで今日は案内をさせて頂きました」と言うのを聞き目頭に熱いものを覚える。

誰もいない資料展示室に入ると昭和天皇御行啓のモノクローム写真がある。陛下はコートを御召しになり中折れ帽を右手に冬枯れの落葉を御踏みになって歩かれ、視線はこちらに注がれている。箱根の雄大な自然を圧して余る帝王の威容に思わず頭を垂れる。

夕食を摂るためにメインダイニングに向かう。高い格天井に花鳥を描き、大きな硝子窓に御簾を下げた和洋折衷の御殿造り。須川産紅鱒のマリネと箱根の新鮮な野菜を冷えた白ワインでやる。食後は趣きあるバーの片隅でスコッチをストレート、杯を重ねる。

部屋に帰って少し眠り、明け方に起きて携行した佐藤春夫の『慵斎雑記』を読む。「語つてゐるが如く語つてゐないが如く、真意は多く言外にあるのが国語の詩情である」の一文に感心して再び眠る。夢うつつに朝の登山電車の音と、野鳥たちのさえずりを聴く。

写真左:ホテルの談話室で一人悦に入るブログ管理人 写真左下から:深い緑に包まれたホテル本館 古色蒼然とした本館の内部 箱根ラリック美術館に展示されたA型フォード 同じく箱根ラリック美術館に展示されたオリエント急行のサロン・カー。中でお茶とケーキを頂いた
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by hishikai | 2009-10-13 17:22 | 日常
2009年 10月 09日
共通の教科書で思い出される論文
10月8日の聯合ニュースによれば、岡田外相が韓日中での共通の教科書作成を検討すべきとの考えを示したことについて韓国大統領府が前向きな反応を示したという。これを聞いて私は2002年から2005年の日韓歴史共同研究の際に韓国側から提出された論文の一つを思い出す。以下に引用する。

《1937年7月、中日戦争を挑発する中で本格的に着手した皇国臣民化運動は、全体主義的動員の方式で韓国人に皇国臣民となることを強制した点で、以前の同化政策とは違いがある。内鮮一体を主張した南次郎総督は、内鮮一体とは「半島人を忠良なる皇国臣民に作り上げること」と述べたが、社会であれ学校であれ、総力戦で名実共に完全な皇国臣民化を目論み、韓国人のアイデンティティーを解体させ、日本人のように天皇に絶対服従する人間型を鋳造するためであった。皇国臣民化運動は天皇制ファシズムに順応する人間製造運動で、ヒトラーのナチズムやムッソリーニのファシズムにも似た非人間的、非文明的運動であった。このような運動が全体主義的動員方式で展開されたのは、韓国人の民族意識、独立意識を抹殺させ、中国などのアジア諸国を侵略して第2次世界大戦を遂行する上で人的、物質的兵站基地としての使命を果たすためのものであった。こうして韓国人の人権は踏みにじられ、韓国人の人間意識は非常な危機を迎えた。》(徐仲錫/『日帝の朝鮮強占と韓国の独立運動』)

この論文にあるのは歴史ではなく政治である。その事はとりもなおさず彼らにとって歴史とは政治であり、歴史教育とは政治教育であることを意味している。そして彼らの体制が政治教育に立脚している以上、彼らにとって共通の歴史教科書とは日本人が屈服することで成立する歴史教科書以外の何ものでもない。また中央日報は以下のように伝える。

《教育科学技術部のイ・ソンヒ学校自律化推進官は(共通の教科書が)「原則的に望ましい提案」としながらも、「2002年5月に発足した韓国・日本歴史共同研究委員会は、偏った見解を持つ日本側委員の拒否のため争点をめぐる本格的な議論が低調であるだけに、慎重に接近して双方が合意できる案を用意しなければならない」と述べた。》

私たちの常識からすれば共同の研究会でヒトラーやムッソリーニを持ち出して相手を論ずる方がよほど偏っているように思えるが、実のところ歴史は政治であるという彼らの原則に難色を示した当時の日本側委員の態度を「偏った見解」と表現することで、今後も歴史の客観視を拒否することを宣言している。我国でも輿石東民主党代表代行の「教育の政治的中立はありえない」という発言が彼らと同じ認識に立っている。

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by hishikai | 2009-10-09 01:53 | 日常
2009年 10月 04日
追悼 中川昭一『飛翔する日本』より抜粋二編
「中川昭一の特徴」より

先日ある学者の方と酒を飲んでいて「悲観的楽観主義者、楽観的楽観主義者、楽観的悲観主義者はけっこういるが、中川さんは悲観的悲観主義者。珍しい政治家ですね」と言われた。「悲観的悲観主義者」がどういうものかはわからないが、自分では悲観的だとも悲観論者だとも思っていない。ただどちらかというと物事を悪い方から見るところはある。小児喘息で学校に通えない時期があったり、高校三年の受験勉強をする時期に体調を崩して大学受験で楽勝と思ったら見事に二度も落ちたりと、小さい頃からの挫折体験が影響しているのかもしれない。しかしこれまでは目標に対して悲観的に入って結果を出してきた。私は私なりに、政治家としての目標を達成するしかないと、そこは割り切っている。

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「豊かさがもたらした新たな試練」より

 少なくとも政治家は「一生懸命やった」「頑張った」だけでは評価されない。国を衰退させ、国民に不利益をもたらした政治家が「これだけのことをやりました。一生懸命頑張った自分をほめてやりたい」と言っても、国民は共感しない。出てくるのはため息ばかりだろう。政治に問われるのは「結果」だ。日本の直面している国際競争で生き残るためには、「自分としては頑張った」のでは不十分であり、「日本の国力・活力を高める」という意識と目標設定、そして適切な対応が必要となる。(中略)
 本来政治家というものには国家や様々の利害が関わっているだけに、危険が伴っている。暗殺の危険さえある。「国を守るために戦う」という重大な権限も付与されている。その点で、アメリカ、ロシア、フランスの大統領や中国、アフリカ等、世界の多くの指導者たちは、死や戦争といった危機に対する臨場感と緊迫感があるように感じる。日本の総理大臣にも自衛のための戦争を選択する権限があるけれども、歴代の首相がどの程度その意識を持っていたかどうかわからない。しかし、熾烈な国際競争の中で、自らの判断と行動で生きざるを得ない時代を日本はたぶん、戦後初めて迎えた。政治に携わる者は日本のために命をかける決意がなければ務まらない。それが今日の日本における政治家の必須条件だと思っている。(中川昭一/『飛翔する日本』より抜粋)

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by hishikai | 2009-10-04 19:36 | 憲法・政治哲学
2009年 10月 04日
自国への誇りに思うこと
e0130549_12524881.jpg2009年10月2日、英誌エコノミスト(The Economist)が発表した調査結果によると、世界33か国中、自国に対する誇りが最も高い国はオーストラリア、最も低い国は日本であることが分かった。(Record China)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091004-00000001-rcdc-cn

私はこの統計の調査方法や質問形式が分からないために、この結果自体よりも、むしろ私と同じように調査方法や質問形式を知らないであろう、あるいは持っている情報量が私と同じ程度にあるだろう一般の日本人の反応に興味がある。

このニュースがYahooで配信されて約三時間後、大雑把にブログ上の反応を検索したが、そこには「ふ〜ん」といった反応だけで言葉が継がれていないものが散見され、日本国内の愛国心へのネガティブイメージと調査結果とのギャップに対する戸惑いを想像させた。

それに比較して掲示板の方により率直な感想があり(これは一部のブログにも見られたが)それは「今の日本に愛国心なんて持てるわけないよ」といった類いの反応で、これらは今回の調査結果と国内の経済や生活の状況とを直接に結びつけた反応であると思われた。

ここまで読んだ私の感想は、これらブログや掲示板の反応が前提とする愛国心の解釈と、今回の調査の表題となっている「Trust and admiration by country」との間にTrustの解釈をめぐって隔たりがあるのではないかということだ。

Trustは根拠や見返りに基づかない確固とした信頼を指す言葉で、これは今日一般に使用される愛国心に多く含まれているLove、つまりJapanをLoveするという観念と異なって更に踏み込んだ、いわば忠誠心に近いものであるように思う。

こういった差異が例えば「学校教育では愛国心を育てられない」という考えに繋がっているように思われ、それはそれで学校は家族への愛を育むところではないために道理ではあるのだが、これが忠誠心となると反対に家庭で教えることには限界があるように思われる。

それは家族への無償の愛というものが家族との連続的接触によって深められる可能性を持つのと異なり、国という実体のない観念に信頼を置く忠誠心は、対象との連続的接触が望めない以上、公教育によって観念的あるいは象徴的に教え込むより他に方法がないためである。

このように経済や生活の状況と結びついた功利的な愛国心、あるいは実体あるものへ捧げる愛と混同された愛国心というものが、いつの頃から広がったのか私は不勉強で知らないが、少なくともそれが現代日本人の一般通念であることは間違いないように思われる。

『月に吠える犬』J.ミロ 1926年(部分拡大)愛国心を具体的に捉えるのは難しいが、私の場合は愛国心をグラフィックなイメージの例で示すとしたら、やっぱりこの画かな。

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by hishikai | 2009-10-04 13:16 | 憲法・政治哲学
2009年 10月 03日
『上海バンスキング』
e0130549_13403345.jpg明るいシャンデリア 輝く盃 麗しきジャズの音に 踊るは上海リル 今日はあの御方と 明日はあの御方と 悩ましき姿は 私の上海リル いつでも朗らかに見せかける だけどリルおまえは 泣いてるよ 涙をば隠して笑顔で迎える 可愛い 可愛い 私の上海リル(上海リル/訳詞:津田出之 作曲:H.Warren)

『上海バンスキング』の好いところは、私たちの過去にも帰るべき場所のあることを教えて呉れたことである。それは耳なし芳一の墓場の平家屋敷ではなく、歌舞伎十八番の荒唐無稽な享楽でもない。もっとしっかりとした歴史的記憶の桃源郷である。

歴史を道徳で断罪することなく、ありのままの時間を過去へと遡れば自然に辿り着く桃源郷である。それがアジア諸国民の犠牲による悪辣な夢だというのならば、産業革命からの世界史はやり直さなければならず、そんな企ての方がよほど悪辣な夢だと言わねばならない。

アール・デコ様式のクラブ、澱んだ空気と紅い酒、ダンスと一夜の放蕩、朝のアパートメントの白いシーツ、窓から流れ込む風、客船の泊まる港、どこまでも広がる青い空、中国人の馬車、摩天楼に沈む夕日、そしてまたクラブ。

芝居が終わっても、夢の舞台の幕が上がれば桃源郷はいつでもそこにある。たとえ幕切れが失望感と一緒に私たちを現在に戻しても、街に厳然として残る戦前のモダンな建築物たちは私たちがルキアノスのような空想家ではないことを告げている。

そうした歴史的記憶の桃源郷を心に描いて、それを何らかの形で実体化していくことは画一化された価値世界に対するレジスタンスとなる。戦後の白々しい道徳と多数者による民主主義が、私たちの父祖の歴史に有罪判決を下すことへの美意識からの抵抗運動となる。

「光の三原色をあわせれば白色になるわけだが、明るさのことでいえば、スポットライトからカラーフィルターをぬいた方が明るいに決まっている、にもかかわらず三色のフィルターが入っているのは何故か。舞台の上の踊り子の衣装のちょっとしたシワや、影の部分が、かすかに赤や青や黄色ににじむのだ。同じ白色光線でも、この方が華やかに見える。僕たち戦後民主主義の青空は、蛍光灯の明るさだ。なにも、植民地をその経済構造をぬきにノスタルジックに礼讃しているのではない。しかし、僕たちの青春の、あの翳りのない明るさに腹が立つのだ。」(斎藤憐/『昭和のバンスキングたち』)

1934年、黄浦江に架かるガーデンブリッジの畔に完成したアール・デコ様式のブロードウェイマンション。

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by hishikai | 2009-10-03 14:24 | 文化
2009年 10月 01日
高尚な趣味
e0130549_11132013.jpg明治二十八年(1895)上田敏は『典雅沈静の美術』の中で「現代の文化には二つの欠点あり。即ち美を愛し学を愛す心盛んならざると、典雅沈静の美術に対する高尚の趣味なき事なり」と述べ、日本人の憶うべき趣味として詩人フォルゴレの『年中行事』を紹介している。

一月は熾なる火、暖かき室、絹布團、皮衣、をりをり外に出でて庭前の娘子と雪投の遊す。二月はむねと遊猟に暮し、三月は漁り網うち、夜は朋友と盃を交はす。四月は春草萌出でて野山美しく、若き男は之に誘はれ、たわやめは鞍に乗りて佛蘭西の時花歌を口吟み、プロヴァンスの舞踏をなして、時には独逸新渡りの楽器を弾き試む。公園の逍遥最もよし。五月は野試合にて騎馬を馳せ違はせ、花の雨をふらして、美しき手より勝者に花環又は橙の葉をとらす、わかうどと、をとめと、道にあひたる挨拶には頬又唇に接吻す。六月は美女美男都會を離れ、近郊の別所に移りて、蔭多かる庭、花園の泉、たえず緑草をうるほすあたりに休らひ、人みな恋の奴なり。七月には、都に帰り、清らなる室にて、絹のすゞしに暑を凌ぐ。八月は野山をかけり、朝狩夕狩、城より城へと山家の谷川などをわたりくらす。九月は鷹狩り。十月も鳥を追ふ。また夜更くる迄うたげするもよし。十一月十二月には冬となりて爐邊のものがたりとなるべし。(フォルゴレ/年中行事『典雅沈静の美術』より)

なるほど、典雅な美術は冬の静謐と夏の歓喜を合わせ持つべきことがよく解る。これほどの趣味を抱けば美を愛し学を愛する心も芽生えるに違いないと納得しきりだが、困ったことに育ちは争えず、私はどうしてもこの詩から小唄『年中行事』を連想してしまう。

初春の年始はかみしものし昆布、如月空や梅香る、雛の祭りは桃桜、鰹テッペンかけたか、ほととぎす、菖蒲刀や川開き、舟で遊びましょう、写し絵花火に紙芝居、アラ、評判、評判、硯洗いや盆踊り、月見、菊の節句や恵比寿講、サー顔見せ、入れ変わりに年の市、サーサ節季候大晦日、やったりとったり、貸餅の、一夜明くれば年始の御祝儀、年玉なげこみ羽根や手まりで、一二三四五六七八九つ子供が集まりて、凧揚げじゃ、さて双六じゃ。(年中行事『本條秀太郎/江戸室内歌曲一』より)

どうですか、好いじゃありませんか。そりゃ、プロヴァンスの踊りやご挨拶のキッスというわけにはいきませんよ、でもね、風情ってもんがありますぜ、そうですとも、こっちだって捨てたもんじゃアない───と嬉しがったのも束の間、一粒の不安が胸をよぎる。

この小唄の作詞者は益田太郎冠者という三井の御曹司、おそらく作詞は彼が留学から帰朝した明治三十二年(1899)以降だ。しかも『典雅沈静の美術』は読んでいるだろうから、すると小唄『年中行事』はフォルゴレの『年中行事』のパロディーかも知れない…か。

『紅葉狩』鈴木春信 18世紀 紅葉狩りも楽しい秋の行楽の一つであった。その昔、紅葉狩りで山に入ると鬼女に出会うと恐れられたが、江戸の頃には「紅葉がり今は遊女がたぶらかし」などと詠われていた。

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by hishikai | 2009-10-01 11:32 | 文学