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2010年 06月 30日
軽井沢
e0130549_11504140.jpg明治十九年七月のある日、旧中山道の宿場町。二人の外国人がようやく着いたというように腰を伸ばし青い空を見上げている。一人はカナダ人の宣教師アレクサンダー・クロフト・ショー。もう一人は帝国大学教授で英国人のジェームズ・メイン・ディクソン。

二人はアーネスト・サトウの旅行案内に紹介された美しい自然を求め、さらには東京の暑さを逃れて、この地に旅装を解いた。旅籠の前では荷馬が桶の中の冷たい水を呑んでいる。自由民権運動もようやく鎮まったかに思えた、静かな夏であった。

こうして保養地としての軽井沢の歴史は始まる。多くの外国人を始め、日本の華族や政財界人が別荘を建て、コミュニティーが作られ、独特な風土文化が育まれ、この地に一夏を過ごすという矜持が暗黙の約束となって人々に洗練をもたらしてゆく。

新渡戸稲造がロッキング・チェアに揺られ、尾崎行雄が乗馬を愉しみ、徳川家の令嬢が高原のピクニックに興じ、少年の日のエドウィン・ライシャワーが草原に佇んでいる。「愉しみを人に求めず、自然に求めよ」それが彼らの合い言葉となった。

だが大衆と民主主義がそれを許しておくことはない。かつてホセ・オルテガ・イ・ガセットは「充満」について、遊園地が大衆であふれているのは、それがもともと彼らための施設ではないために、彼らを収容できないからだと言ったが、今の軽井沢では本当のことだ。

「我々の目はいたる所に彼ら群衆の姿を見出すのだ。いたる所にだろうか? いや、いや、そうではない。他でもなく、人間文化の比較的洗練された所産として、以前は少数者の集団のために、正確に言えば、すぐれた少数者のためにとっておかれた場所に見出すのである」(ホセ・オルテガ・イ・ガセット/『大衆の反逆』)

そんなことを考えながら、ふと窓の外を見ると緑がまぶしい。森の小さなレストランに一人でいる。それにしても初めて訪れた軽井沢で私は何をしたら良いのだろう。主人に尋ねると「散歩です」と言う。なるほど「愉しみを人に求めず、自然に求めよ」か…。

室生犀星旧宅附近の小径。そもそも矜持のないところに個人はなく、個人のない自由は混乱に等しい。そのような社会においては暗黙の約束など無いに等しい。自由が暗黙の約束を条件とした不干渉の秩序だとすれば、そうした暗黙の約束を生み出す矜持こそ、自由な社会の出発点ではないだろうか。

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by hishikai | 2010-06-30 12:01 | 文化
2010年 06月 26日
福永恭助『新帝都のスタイル』に思う
e0130549_325110.jpgたとえばパリの街角に立って周囲を眺めるとき、およそ先進国の名に相応しからぬほど此処では多くの建物が伝統的な様式に彩られていることに気付く。オスマンの改造以来、欧州の「花束」の地位を護り抜いたその姿が、伝統への信念の表現であることは想像に難くない。

顧みて東京に伝統的な様式の少ないのは何故だろう。現在の東京は震災復興事業と戦災復興事業とで造られたが、東京のそうした非伝統化の原因は、それら二つの分岐点に生きた人々の文章の中に、日本の近代化という事情と絡み合うように吐露されている。

福永恭助『新帝都のスタイル』もその一つである。彼はC.ビアード博士の、東京の震災復興事業に際しては伝統的な様式を積極的に採用すべしとする提言に対し「一番先に考へるべきことは新日本の精神とは如何がといふことだ」と述べて、これに反対する。

その「精神」の如何を私は知らないが、仮にそれが列強と伍した国家経営を指すのならば、何も首都の様式を云々するまでもなく、独立国家として当然の目標であろう。むしろ厄介なのは「新日本」という考えの方で、これが福永の主張の全ての前提となっている。

すなわち彼は徳川幕藩体制が「旧」明治国家が「新」日本で、両者は自ずから異なり、したがって「今日の日本人は最早昔の日本人とは違つて居る」のだから、旧い「ハラキリ時代以前の芸術」や「復古的芸術の採用も此際断然と斥けるべきである」と云う。

こうした考えは戦前の人々に一般的なものであったろうし、戦後の人々に馴染み深い戦前悪玉論なども──その意味内容は別として──形式を同じくしている。いつでも過去を否定しながら、現在を初発として将来を描くことが、私たち近代日本人の「未来」である。

それが戦前で云えば、人間の生を瞬間の連続として捉えたモダニズム文学や、日本の世界統理を唱えた極端な八紘一宇思想であったり、戦後で云えば、非武装中立論に代表される平和主義や、現実の財政を考慮しない福祉国家論など、一連の未来志向の源泉となっている。

しかし事実として現在は過去の先頭で、未来は「未だ来ない時間」である。未来への飛距離は、過去という滑空台の距離と角度、現在の踏出しの如何に掛かっていて、その意味で未来は過去の影に過ぎず、過去と絶縁された飛躍的な未来など存在しない。

そうした当然の事実を直視しないことは、それが西洋化を余儀なくされた日本人の、無意識な自己欺瞞であるとしても、やはり哀しい屈折であることに違いはなく、その哀しい屈折を近代史の中に表現したのが、東京という伝統を否定した都市の姿であると私は思う。

昭和初期の銀座にそびえ立つ和光の時計塔。現在でも銀座の象徴として人々に親しまれている。上部手前に垂れ下がっているのが「むーかし、こーいしい(昔、恋しい)」と歌われた銀座の柳。江戸の頃は柳並木と云えば柳原の土手と相場が決まっていて、しかも弱々しいイメージであったために、新興レンガ街であった銀座との取り合わせの評判はどうであったのか、気になるところである。少なくとも明治になってから皇居周辺に植えられた柳の評判は、今一つであったらしい。

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by hishikai | 2010-06-26 03:40 | 文化
2010年 06月 14日
福永恭助『新帝都のスタイル』
e0130549_10593116.jpg関東大震災で壊滅した東京をどのような姿に復興すべきか。この問題について言及したC.ビアード『東京復興に関する意見』に対し、小説家の福永恭助は大正十三年(1924)の『中央公論』二月号に『新帝都のスタイル』という一文を載せて、次のように反論している。

「一番先に考へるべきことは新日本の精神とは如何がといふことだ。(中略)我尊敬すべきビアード博士が、たとへ日本の風物を愛好するの余とはいへ、其意見の中に『骨董品としての日本』を余り多く見て新日本の精神を深く了解されないような言葉を吐かれたことは残念の極みである。(中略)

詮じつめれば、彼等異人の眼には日本人はまだ子供なのだ。(中略)その子供は物心がついてから色々と大人の真似をして見た。政治に経済に教育に司法に軍事に。そして僅計りの取除けを除いてそれ等大部分が概ね成功をかち得たのだから決して笑ふ訳には行かない。(中略)西洋の真似をして作つて見た日本海軍は、物の見事に支那もロシヤも打ち破つて仕舞つたではないか。(中略)

最後に呉々もビアード博士に御断りして置くのは、新帝都建設に当つて、新都が外国旅行客に興味を与えへるや否やと云ふ事を余り問題にすることを謹んで頂き度いと云う事である。(中略)ジャパン・トーリスト・ビユローの仕事やお寺のやうな奈良ホテルを建てて漫遊外国人の意を迎へて居る鉄道省辺りの仕事を見て日本人全体の理想を曲解してはならぬ。而して又仮令日本の現状がその理想の半ばにも到達して居なくても。(中略)

彼等の『日本趣味』の多くは日本人にとつては実は支那趣味であつて、日光の東照宮のやうなゴテゴテした装飾は簡明直裁単純淡白を尚ぶところの吾々日本人の趣味とは本質に於いて相容れない所のものであつて、其点で新時代の日本人は寧ろ泰西芸術の或物に多大の共感を感じて居はしまいか。

尚又復古的芸術の採用も此際断然と斥けるべきである。何となれば今日の日本人は最早昔の日本人とは違つて居るから、それに対してハラキリ時代以前の芸術を望むのは望む方が無理である計りでなく、強いてそれを表現しやうとすればそれは何等の誠意も認められない力の弱いものになつて仕舞ふ筈である。虚偽は常に芸術ではあり得ない。

復興の大業に当る諸君よ。諸君の芸術的標語は新日本の表現である。而してこれが表現に必要なものは、たとへそれが泰西芸術の採用となつて表はれて来たとて諸君は毫も憚る処はない。その昔吾等の祖先が模倣した支那の芸術が、今日となつて多くの日本愛好者を驚かして居るやうに、他日諸君の採用した泰西芸術が換骨奪胎して世界に誇るところのものとなつて顕はれ出た時に、諸君の子孫は諸君の達識と聡明に対して感謝の辞を惜しまないであらう。本質に於て特異性を持つ国民はやがて泰西芸術をも日本化しないでは置かないから。」(福永恭助/『新帝都のスタイル』)

福永恭助(1889~1971)小説家、国語国字問題研究家。海軍大学校卒業。海軍少佐。大正六年、フランス政府から製造を依頼された駆逐艦を佐世保から地中海のマルタ島に回航する特務艦隊の参謀を努めるも、任務を終えた直後に結核を発症して海軍を退役。その後、画家を目指してパリに遊学し、そこで日本の出版社の依頼によってフランス小説の翻訳を手がけて以後は小説家に転身する。『日米戦未来記』『日米戦の用意はいゝか』など、未来戦記や冒険小説を得意とする。

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by hishikai | 2010-06-14 11:10 | 文化
2010年 06月 09日
福永恭助の『日米戦未来記』
e0130549_12242988.jpg福永恭助の『日米戦未来記』は新潮社の月刊誌『日の出』昭和九年新年号付録。そこでは未来の日米戦が次のように語られる。──海軍を脱走して満州のラヂオ店主に身をやつした元駆逐艦一等水兵、河野剛が得意先で耳にした臨時ニュースは信じられないものであった。

「本日午後四時十五分、米国亜細亜艦隊ヒューストン号がウースン沖停泊中、日本駆逐艦『楢』のために撃沈されました」駆逐艦『楢』は河野の所属していた艦で、艦長は牧栄太郎大尉。牧大尉は日米の戦力差を憂え、早期開戦に持ち込むために独断で挙に出たのだった。

そして米国は宣戦を布告。サンフランシスコ湾には艦艇が続々と集結する。黒人はパナマ運河を爆破し、日系人は巨大飛行船を破壊するが、そうした抵抗運動も彼我の戦力差を覆すことができない。やがて編成された圧倒的な規模の米国艦隊が西太平洋に向けて出航する。

日本でも予備役の招集が慌ただしく行なわれている。その中に、あの河野剛の姿もある。だが陸軍によるフィリピン攻略作戦は難航し、真珠湾で米国艦隊を奇襲した日本潜水艦隊は全滅してしまう。ここに至り、遂に大本営は一大艦隊決戦を覚悟する。

日米両艦隊激突の舞台は小笠原島東方二百海里の洋上。先ず敵勢力の減殺を狙って八隻の巡洋艦を中心とした日本の前衛部隊が攻撃を開始。二時間に及ぶ壮絶な死闘の末に米側は二隻の航空母艦を失い、日本側は六隻の巡洋艦を失う。ここで日没となり砲声は一旦止む。

真っ暗な闇の中を牧艦長の駆逐艦が航行している。と、突然目の前に巨大な船影が現れる。「敵空母だ!」たちまち敵の集中砲火で艦上は修羅場と化す。もう駄目だと思われたその瞬間、河野水兵の発射した魚雷が敵の火薬庫に命中。敵の巨大空母は闇の中で轟沈する。

一夜明けてみると日米の航空兵力は逆転していた。前衛部隊の奮戦と、河野水兵の大手柄によって航空母艦三隻を撃沈したのが効いたのだ。さらには父島から陸軍の爆撃機隊も駆けつけている。このときほど米艦隊は遠征軍の不利を噛み締めたことはなかったであろう。

日本艦隊は周囲に煙幕を張って砲撃を開始する。着弾観測飛行機の報告で面白いように弾が当たり、敵は次々と沈められていく。「降伏を勧告してはどうか?」長官の意志が伝達されると、生き残った米艦船の檣頭に白旗が翻えった──。そして物語は、こう結ばれる。

「河野水兵は…逃亡罪の残りの服役を数ヶ月間、大津の海軍刑務所で送つた。刑務所を出て久し振りに妻の千枝子に会つた時に、千枝子は丁度身二つになつてゐた。祖母に似たのか、眼の大きい女の児が生まれた。二人がその女の児を交わる代わる抱きながら、新占領地のホノルルに向かつて横浜を出帆する秩父丸に乗つたのは、それから半年の後だつた。船の中には戦捷を記念するためにワイキキの公園に建てるといふ、牧大尉の銅像が積まれてあつた」(福永恭助/『日米戦未来記』)

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by hishikai | 2010-06-09 13:33 | 文化