2011年 03月 08日
『太平洋の奇跡』を観て
e0130549_16142913.jpg私は谷崎潤一郎の『細雪』を読みながら、映画『太平洋の奇跡』の上映を待った。『細雪』の日本人は友禅を纏い嵐山に花見をし、神戸港に洋行の客船を見送り、オリエンタルホテルで見合いをし、歌舞伎座で六代目菊五郎に陶然とし、銀座のローマイヤーで食事をする。

そして『太平洋の奇跡』を観て、そこに展開される光景、バンザイ突撃、洞窟での自決、汗じみた白いブラウスにモンペ、山中を彷徨う人々、焼けたトタン板、収容所、密林に息をひそめる兵隊、それらが、どう考えても一種の奇観であるように感じられた。

それはおそらく、昭和十一年から十五年の『細雪』と昭和十九年から二十年の『太平洋の奇跡』とでは、豊かさも風俗も違うことを承知していながら、昭和モダニズムとサイパン島を同じ時間上に並べて見る実感が、少なくとも私には無かったということであろうと思う。

つまりは、あのバンザイ突撃で次々と倒れてゆく兵隊のうち幾人かは、かつてのモダンボーイで、汗じみた白いブラウスにモンペ姿の女性たちの幾人かは、かつてのモダンガールであったということを、これまで本当には考えてこなかったということであろう。

モダンボーイやモダンガールだけではなく、あの戦争の死者たちが、日本書紀の遠い昔から抜出してきたのではなく、少し前まで小説を読み、映画を観て、美衣美食を愉しんだ人々であったことをもっと考えなければ、私は人間の歴史を取り逃がしてしまうと思った。

# by hishikai | 2011-03-08 16:23 | 大東亜戦争
2011年 03月 01日
平等に就いて
e0130549_13455433.jpg路地は(中略)今も昔と變りなく細民の棲息する處、日の當つた表通からは見る事の出来ない種々なる生活が潜みかくれてゐる。侘住居の果敢なさもある。隠棲の平和もある。失敗と挫折と窮迫との最終の報酬なる怠惰と無責任との楽境もある。(永井荷風/『日和下駄』)

平等こそ最善最美の道徳であると信じられている今日の我国にあって永井荷風のような言論は到底許されるものではないが、それにしても私たち日本人が平等という考え方に、こうも執着するのは、それが伝統的な価値観だからかと言えば、そうとも思われない。

我国の歴史を辿っても、国家による生活保障だとか、政府による充実した福祉であるとか、これを支える大きな政府だとか、そういったものが存在したという事実を見出すことは出来ない。むしろそうした保障がないからこそ、額に汗して働く人々の姿が営々としてある。

そうだとすれば我国の平等は輸入品ではなかろうか。西洋学問の流入を俯瞰すると、桂川甫周らを代表者とする蘭学に始まり、幕末に福沢諭吉を代表者とする英米学が中心となり、大日本帝国憲法発布の明治二十年代を境として、ドイツ学への傾倒が著しくなる。

学問の基礎が哲学であると云うことを許して貰えるならば、ドイツ学の基礎はドイツ哲学である。ドイツ哲学が何であるかの問いは私の能力を超えるが、そこに道徳哲学の側面が強くあることは間違いないと思う。つまり「人間のあるべき姿」を追求している。

我国には同じく道徳哲学である儒教の伝統があり、そこからドイツ哲学は日本人に馴染みやすい。この「人間のあるべき姿」を追求した明治二十年代以降の思潮が、大正から昭和初期の労働運動を契機として紡ぎ出してきたのが、我国の平等ではないだろうか。

それでも戦前には「身分相応」などの言葉に示された社会階層への意識が歯止めとなっていたが、敗戦でそうした意識が崩壊すると、平等は日本の国是であると云わんばかりの奔流となり、これが今日では国家財政の逼迫からようやく停滞の兆しにある。

そこに思うのは我国の平等が戦前に社会階層から、戦後に財政逼迫から停滞を迫られたことは単に状況の為せる結果に過ぎず、本質的な歯止めではない事である。そうならば私たちは平等の本質的な対立者である「自由」を、もっと考えるべきではないだろうか。

画 農村窮乏風刺漫画・千人針(『東京パック』より) 無論のこと貧困は救うべきだが、その救済も行き過ぎれば危険な反作用を社会に及ぼすことになる。

ブログランキング・にほんブログ村へ

# by hishikai | 2011-03-01 14:08 | 憲法・政治哲学
2011年 02月 26日
獄中所感
e0130549_95122.jpg私は二二六事件を殊更に美化しようとは思わないけれども、だからと云って、殊更に醜く考えようとも思わない。只、七十五年を経た今日でも、この季節になると事件が人々の口吻に上るのを見て、日本人の感情に触れる何かが、そこに潜んでいることを思う。

獄中所感

吾れ誤てり、噫、我れ誤てり。
 自分の愚な為め是れが御忠義だと一途に思ひ込んで、家の事や母の事、弟達の事、気にかかりつつも涙を呑んで飛び込んでしまつた。
 然るに其の結果は遂に此の通りの悲惨事に終わつた。噫、何たる事か、今更ら悔いても及ばぬ事と諦める心の底から、押さへても押さへても湧き上る痛恨悲憤の涙、微衷せめても天に通ぜよ。

我れ年僅かに十四歳、洋々たる前途の希望に輝きつつ幼年校に入り、爾来星霜十五年、人格劣等の自分乍ら唯唯陛下の御為めとのみ考へて居た。然るに噫、年三十歳、身を終る。今日自分に与へられたるものは叛乱の罪名、逆徒の汚名、此の痛恨、誰が知らう。

幼年校入校以来、今日に到る迄身は常に父母の許を離れ孝養の道を欠いて居た。此の一、二年漸く自分の心にも光明輝き、これからは母にも安楽な思ひをさせ、弟達をも自分の及ぶ限り世話をしやうと思つて心に勇み希望に燃えてゐた矢先、突如、一切は闇となり身は奈落の底に落下してしまつた。
 永久に此の世で孝養はつくせぬ。噫、私は何も今更ら自分一個の命を惜しみはしない。が後の事を考へると辛い。母や祖母や弟達、何一つ御恩返しも出来ず心配をかけ悲痛な思ひをさせて自分が斃れて行くのは如何にも辛い。(竹嶌継夫「獄中所感」/『二・二六事件獄中手記・遺書』)

竹嶌継夫 明治四十年五月二十六日、陸軍少将竹嶌藤次郎の長男として生まれる。昭和三年、陸軍士官学校を主席・恩賜賞で卒業。陸士第四十期生。昭和九年、豊橋教導学校歩兵隊付きとなる。昭和十一年、上京して二二六事件に参加。命日、昭和十一年七月十二日。

写真 事件鎮圧後、帰隊する決起部隊兵士。

ブログランキング・にほんブログ村へ

# by hishikai | 2011-02-26 09:10 | 昭和維新