2009年 04月 20日
どの道徳体系においても、私は常に気が付いていたのだが、その著者は、しばらくのあいだ通常の仕方で論究を進め、それから神の存在を立証し、人間に関する事柄について所見を述べる。ところが、突然、出会うどの命題も「である」とか「でない」という普通の連辞で命題を結ぶ代わりに「べきである」または「べきでない」で結ばれていることに気付いて、私は驚くのである。(D・ヒューム) もし道徳が幾何学や代数学のような確実性をもたらすことができるのであれば、人間世界の諸事全般の中の、どこにでも普通に見ることが出来る人間の徳や悪徳といったものを、例えば質の程度や量、数の割合のような基準を用いて、その諸関係の中に明示することが出来るはずである。 そして、それらは当然のことながら、生命を持たない物質に対しても、その基準を用いて言及できるはずであるのだから、例えば机と椅子はどちらが道徳的に価値が高いのか、太陽の運行と月の運行はどちらがより道徳的に好ましいのかといった議論も大真面目に行われなければならないであろう。 ところが事実として、そのような話は聞いたことがない。結局のところ「である」とか「でない」という結句で文章を終えることが出来る事柄と「べきである」または「べきでない」という結句で文章を終えることが出来る事柄とは本質的に異なるということを、人間は希望を込めて、曖昧にしたがるということではないか。 希望を込めてとは、人間が自分の生きる世界の隅々に至るまで本来は道徳で律することが出来る、そう思いたいという願望のことで、そういう気持も解らないではないが、例えば市場といった仕組が、道徳とはほとんど無縁でありながら、人間生活の大部分がその影響下にあることを考えてみても、道徳の限界は明らかであろう。 道徳は人間が社会の中で他者と関わりながら相互の安全のために取り交してきた黙約である。だから同じ事柄でも時代により道徳的な価値は変動するし、それが人間世界の陰翳である。いくら太陽光が善いからといって、世界の隅々まで日向であったならば、その世界は地獄である。
by hishikai
| 2009-04-20 15:10
| 憲法・政治哲学
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