2009年 05月 15日
方法論的集団主義は人々の集まりを、ひとつの集合体と考える。その上で集合体の性質は、これを構成する個人の性質に還元できないとする立場を云う。例えば「国家」という構成体を、直接かつ客観的に認識できる「共同体」と捉えて、これが個人と同じく意思を持つ実体であると考える。 方法論的個人主義は人々の集まりを、個人を要素とする集合体と認めながらも、集合体の性質は、これを構成する個人の性質に還元できるとする立場を云う。例えば「国家」という構成体を、人の頭の中で構成された抽象概念と認識して、個人の織り成す無数の行為が一つの意思を持つことはないと考える。 こう云うとひどく頭の痛いような話だが、此処は学究の場ではないので誤りを承知で極端に要約すると、例えば国家を論じる場合「国家から考え始める立場」と「個人から考え始める立場」とがあり、論者がどちらの立場を選択するかによって、その世界観が全く異なるという話である。 そしてこの点で私達日本人はどうかと云えば、明治以来ずっと方法論的集団主義で世界を把握してきた。国会やテレビで「国民は⋯」と云うとき、その世界には国民という直接かつ客観的に認識できる実体が想定され、そのために「国民が一つの意思を持つ」ことは自明の事として考えられている。 しかしこのような考え方が支配的な集団の中では、ともすると個人の存在は、国家や国民や社会という「共同体」の中に融け込まされてしまうため、例えば福沢諭吉のような「一身独立して一国独立する」「立国は私なり、公にあらざるなり」という、個から全体へ広がる思考の流れは理解されにくい。 また国家という「共同体」を最初に想定すると、民族という「共同体」の置き場所が難しくなるのではないか。近代国家の制度に民族性を反映すべしという類いの主張は、国家と民族の関係に混乱があるように思われる。この辺りは方法論的個人主義で国家を抽象概念、即ち統治のシステムと割切ってしまった方がよい。
by hishikai
| 2009-05-15 11:16
| 憲法・政治哲学
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