2009年 06月 14日
然るに『罪と罰』を読んだ時、あたかも曠野に落雷に会うて眼眩(くら)めき耳聾(し)いたる如き、今までにかつて覚えない甚深の感動を与えられた。こういう厳粛な敬虔な感動はただ芸術だけでは決して与えられるものでないから、作者の包蔵する信念が直ちに私の肺腑の琴線を衝いたのであると信じて作者の偉大なる力を感得した。(二葉亭余談/内田魯庵) 明治二十四年にドストエフスキーの『罪と罰』を初めて読んだ感動を、内田魯庵は上のように回想している。それにしても「落雷に会うて眼眩めき耳聾いたる如き」とはいささか大袈裟のようだが、これは単に小説への感動だけでなく、日本人がこの列島に二千年暮して初めて出会う思考への驚きで無理もない。 だが源氏物語にしろ里見八犬伝にしろ我国の伝統的文芸に登場する廉潔優美な人物たちが前近代の幼稚な造形であるとするならば、平凡で不完全な主人公に現実社会の奈落と人間心理の暗黒を歩かせるドストエフスキーの文学に登場するラスコーリニコフのような病的気鬱の人物たちは近代の不健康な造形である。 そして──直感的な言い方に過ぎるかも知れないが──その不健康は日露戦勝以後の自然主義文学とプロレタリア文学運動、あるいは日本主義と大アジア主義に見られる精神の不健康と同じ臭いがする。それは観念生活が実生活以上に現実的であるという感覚に憑かれた人間タイプ、あの「インテリゲンチャ」の臭いである。 《インテリゲンチャに共通しているのは、彼らが自分は単に思想への関心以上の何ものかを抱いていると考えていることだ。世俗の人間であるとしても生涯を捧げた僧侶にも劣らぬ存在で、福音の使徒のように人生に対する或る特殊な態度をひろめることに献身していると考えている。》(ロシア思想者論/I.バーリン) そういう過剰な献身からくる不健康が、大東亜戦争の敗戦と深い場所で手を繋いでいるように思われる。ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』のイワンに「ヨーロッパの思想的仮説がロシアの青年にかかると生活の原理になってしまう」という台詞を言わせている、その痛ましい土壌は我国も同じである。
by hishikai
| 2009-06-14 01:54
| 文学
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