2009年 07月 28日
政府の役割は公園のベンチを作ることである。公園のベンチは誰もが使えるという意味で一般的で、特定の人々を対象にしていないという意味で公平で、誰もが事前に使い方を知っているという意味で公正である。公園を散策する人はどのように歩こうと自由で、誰でもベンチを利用することができる。 その人が有徳の士であろうと不徳の士であろうと、有能の人であろうと無能の人であろうと、全体主義者であろうと個人主義者であろうと、異性愛者であろうと同性愛者であろうと、ベンチはそれらを一切考慮しない。それは選挙の票が誰でも一人一票であるように、ベンチにとって個人は匿名の中の一人である。 その人が男性であろうと女性であろうと、老人であろうと若者であろうと、子供がいようと子供がいなくとも、会社員であろうと農家であろうと、ベンチはそれらをあらかじめ考慮しない。それは全てのプロレタリアートが善人であると予め思い込むことの失敗を繰り返さないのと同じく、例えば全ての老人が貧しいと予め思い込むことをやめている。 その人が法律に精通していようと精通していなかろうと、組織の仕組みをよく知っていようと知っていなかろうと、団体に所属していようと所属していなかろうと、政治家に知り合いがいようと知り合いがいなかろうと、ベンチの使い方はただ腰掛けるだけである。その使用方法は簡素であるために誰でも前もって知っている。 そのような公園のベンチは公共財の典型である。公共財といえば道路や空港を考えがちだが、しかし公のものごとは法律が制定されて始めて具体的な制度となり設備となるために、公共財の第一は法律である。そして法律の性格を決定するのは、投票者と議員の立法に対する考え方である。 どこにどのくらいの格差があり、誰がどのくらい困っていて、誰が何を望んでいるかを調査し、逐一これに対応するように法律を制定するならば、当然の事ながら、そこには巨大な官僚機構が必要となる。そして彼らは莫大なコストをかけて、膨大な種類のベンチを作り、誰がどのベンチに座るべきかを命令する。 それは投票者が政府による生活への子細な助力を望み、そのような公約をかかげる候補者を選び、選ばれた議員が手に余る細目を官僚に委ねてしまうことの当然の結果である。多くの法律に見られる「何々条の何々の細目については、政令でこれを定める」という「立法の委任」が、官僚に大きな権限を与えている。 だから私たちが本当に官僚主導の国の仕組みを打破したいのであれば、まず私たち自身が自分のことは自分でしようと決心し、政府による生活への子細な助力を望むことをやめ、公園のベンチのように簡素ではあるが、特定の人々をターゲットにしたのではない、一般的で公平かつ公正な法律の制定を望むことである。
by hishikai
| 2009-07-28 22:07
| 憲法・政治哲学
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