2009年 08月 24日
昭和二十一年七月晦日、炎天下の土ほこりにむせかえる上野ガード下の闇市。焼跡から自然に湧き出たような生き物たちが大声で食い物を売り、往来をゆくこれもまた有象無象どもがその声に応じてしわくちゃの十円札を投げ出し不潔な食い物にかぶりついている。 と、突然姿を現した芥と垢にまみれてどす黒い肌の頭から顔にかけ得体の知れぬデキモノにおおわれた少年が、一つの露店に飛び込み蠅のたかる握り飯に噛みつき、その素早さのまま今度はシュミーズで店番をしている若い女の驚いて立ち上がろうとする足に抱きつく。 女は悲鳴をあげて振り払おうとするが少年は離れない。半ズボンに兵隊靴をはいた市場の見回りらしいのが駆けつけるが、少年の異様な風態を怖れて引き離すことができない。やがて少年と女は煙草に火をつけようとしていた私にぶつかり、三人はもんどりうって倒れ込む。 私がやっと起き上がったときすでにに少年の姿はなく、女は煙草の火でシュミーズに穴があいた私を罵り、取り囲む人だかりは殺気立っている。私はあの瞬間に女の柔らかそうな肌に抱きつきたいと願った自分の色情を見透かされたような気がして夢中で市場を逃れる。 気をしずめて上野の森を歩き、私の今日ここへ来た目的は谷中のある寺に拓本を採りに行くことだと思い返しながら、ふと後ろを振り返ると先刻の少年がこちらに向かって歩いてくる。しばらく歩き再び振り返ると、やはり少年が、今度はぐっと距離を縮めて追ってくる。 決心をした私が東照宮の境内に入り振り向くその途端、少年が猛然と襲いかかって来る。悪臭にむせかえりながらの格闘。そして、ようやうのことで意外に滑らかな肌理をした少年の腕を押さえつけ地面に組み伏せると、私は一瞬にして恍惚となるまでに戦慄する。 「わたしがまのあたりに見たものは、少年の顔でもなく、狼の顔でもなく、ただの人間の顔でもない。それはいたましくもヴェロニックに写り出たところの、苦患にみちたナザレのイエスの、生きた顔にほかならなかった」(石川淳/『焼跡のイエス』) 翌日闇市は取り払われ、昨日まで露店がずらりと並んでいたあとには、ただ両側にあやしげな葭簀張りの小屋が閑散として残るばかりで、そのきれいに掃きならされた土の上に何やら物の痕の印されているのが、あたかも砂漠の上に踏み残された獣の足跡のように見えた。
by hishikai
| 2009-08-24 10:11
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