2009年 09月 16日
個人主義や自己責任という言葉はいまや徹底的に叩きのめされ、悪臭の漂う手垢にまみれてしまった言葉であるが、それでも私たちがそれらの言葉に手を添えて助け起こしてやらなければならないのは、それらが人間に欠くことのできない自由の忠実な従者だからである。 自由とはそもそも他人に迷惑をかけない限りにおいて、まだ試してもいないことを予め「だめだ」と遮られないことで、そのとき彼の行動を個人主義が「何が一番幸せであるかは誰も知り得ない、それは本人にしか分からないのだ」と弁護し、自己責任が「その結果については彼本人が責任を引き受けるであろう」と保証して、これを後押しする。 だが現代において、そのような考え方が受入れられることはない。現代人の幸福への道筋には交通標識のような定式が与えられ、その結果には鋳型のような定形が与えられている。したがって政府がこれを支援することに容易であり、人々もこれを受入れることに安易である。例えば小沢一郎はその著書『小沢主義』で次のように言う。 みんなが幸せな生活を、豊かで平穏な生活を送れるようにするために、何をすべきか。それを考えるのが、政治の役割、政治家の役割であって、それ以上でもそれ以下でもない。(小沢一郎/『小沢主義』) この思考には何が幸せであるか、何が豊かであるか、何が平穏であるかを最初から問い直そうとする回路が欠落している。それらはあらかじめ決定されているために、あたかもショウウィンドウの中の定食サンプルである。政府は素材も盛り付けも同じ幸せの定食を配給し、国民は嬉々としてこれを受け取っている。 それでも日本人が自分を自由だと思い込んでいるのは、個人主義と自己責任を従者とした古典的な自由の解釈に対して、現代の新しい自由の解釈が取って代わり、人々の脳内に君臨しているためである。そして新しい自由は脳内の玉座からこう言い放っている。「政府が国民生活を保障し、人々を経済問題から解放したとき、はじめて人々は自由なのだ」と。 こうした自由の変更がいつ行われたかについて正確な日付は定かではない。が、少なくともそこに産業革命による労働者の困窮と、これを救おうとした人々の憤りが反映されていることは間違いない。それはフェビアン協会でありマルクス主義である。(事実としてはヨーロッパの社会改革が、より実際的な動機に基づいていたことは前に書いた。) それは全く当然の憤りであるし、労働者の困窮については大いに同情すべきである。しかし彼らはやり過ぎたのだ。生存権と呼び名を変えて日本国憲法に受け継がれた彼らの主張は、戦後日本人の臓腑の底の底まで汚染してしまった。憲法の謳う「最低限度の生活」の内容は際限もなく高められ、政府への要求はいまや止まるところを知らない。 産業革命の頃の貧しい労働者たちが人間らしい生活を望んだのは当然であるとしても、彼らは貧しいが故に人間の自由を忘れ、人間の自立を忘れ、やがて唯物的になったのだ。日本人が信じて疑わない政府による国民生活の保障にしても、その美名とは異なり、いびつで苦悶に満ちた彼らの主張が土台となっていることを、私たちは覚えておくべきである。 1905年、ロシアのオデッサで皇帝に憲法制定をむりやりに承認させて歓喜する革命家たち
by hishikai
| 2009-09-16 13:18
| 憲法・政治哲学
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