2009年 11月 28日
上野山をぶらぶら歩いて国立西洋美術館の前を通りかかると『古代ローマ帝国の遺産─栄光の都ローマと悲劇の街ポンペイ─』の看板が目に留まる。他に行くあてもないので入ると、ローマ帝国の黄金期オクタヴィアヌスの治世B.C.64からA.D.14頃の美術品やポンペイ出土の装飾壁画、豪奢な調度品が数多く展示されている。 それらを眺めて想像されるのは、彼らの生活が肩の凝らない南国的な──そして今日流行の言葉で云えば──「ラグジュアリー」なものであったことで、それが気候風土の影響であったか否かはイタリアへ行く幸運に恵まれない私には判らないが、それでも彼らが旺盛な多神教徒であったことは考えてもよいと思う。 家庭や農園に住むヌーメン、炉の火を守るヴェスタ、家と農園の境界を守るラレス、貯蔵場の神ペテナス、収穫の季節の精霊マルスなどなどの神々に加えて各人の守り神を信ずるローマ人たちは、そうした神々を前にして、こう考えていたのであろう。神々が何かしてくれるのならば自分たちも何かしてやろう、と。 ポエニ戦争でローマ艦隊の指揮官だったクラウディウス・プルケルは神聖なひな鳥を船に乗せて餌をついばむ様子から吉凶を占おうとしたが、ひな鳥が餌を食べないので「食べないのならば飲むがいい!」と叫んで神聖なひな鳥を海に投げ込んでしまったという。神々が何かしてくれるのならば──兎も角もそういう事である。 こうしたローマ人たちの思考は属州の自治や信仰の自由といった帝国統治の法にも反映されていた。彼らにとって満足のいく勝利とはかつての敵と同盟を結んでローマの仲間を増やすことであったし、そうして築いた広大な帝国領土は「服従の広がり」と云うよりも、むしろ互恵的な「関係の広がり」であった。 ドイツの歴史学者ランケの言葉に「一切の古代史はローマ史の中に注ぎ込み、近代史の全体はローマ史の中から再び流れ出る」とある。だが西欧人の法が互恵的であったことはなく、したがって彼らの支配する地域が「服従の広がり」ではあっても「関係の広がり」であったことは以前にもなければ今日にもない。 これは西欧人がローマ法をヘブライの文法で読んだからで「汝するなかれ」という戒律としての法は超越者の立法を必要とする。それは絶対王政が革命で倒された後も人民の絶対を唱える人民主権として残った。「人民は王の靴を履いた」しかし「その前に王は教皇の靴を履いていた」というのが西欧人の法の歴史である。 私たちの生活が「ラグジュアリー」でないのは世知辛い現代にあって仕方の無いことではあるが、なお一層これを世知辛くしているのは、王の靴を履いた貧しき主権者たちが富裕者を引きずり下ろすことで自身の貧困を慰めようとする精神の狂気ではないか。もう少しローマ人たちのように肩の力を抜いて生きられないものであろうか。 美術館を出ると初冬の冷たい風が羽織の裾を翻す。小腹が空いた。精養軒も好いが、いっそ浅草の神谷バーへ行こう。あそこの熱々の海老グラタンとメンチカツで電気ブラン・オールドをやろう。一緒にハチブドー酒をやるのもまた美味い。あゝ…こればかりはローマ人も及ばない、日本庶民の「ラグジュアリー」ではないか。 宗教教団への入信の儀式が行なわれた邸宅の女主人。ポンペイから出土したこの壁画は当時の秘儀の有様を伝える唯一のものであると考えられている。1世紀頃の作。
by hishikai
| 2009-11-28 14:08
| 憲法・政治哲学
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