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2008年 02月 07日
自由主義思想への考察
自由主義思想への考察_e0130549_1028050.jpg自由主義とは人間観である。「人間とは何か」という問いに対する深い悩みである。道徳が人間に期待する価値に対して、現実の人間はどれほど応えることができるのか、理性的な思索は人間の弱さや情念を把握しきれるのか。そのような理想と現実の距離を社会制度に反映させようとしてきた思想が自由主義である。

合理主義啓蒙思想は政治的な公民による投票は正しき民意を反映する、つまり「個人の意志が全体の意志と一致する」というフィクションを創出した。国民に主権を与えてこの筋書きを展開したのがルソーの「社会契約論」である。しかし見方を変えればこれは多数者による全体主義である。我国でもよく耳にする「国民が求めている」などという息苦しいイデオロギッシュな言葉は、この合理主義啓蒙思想により支えられている。

これに対してD・ヒュームやA・スミスなどに代表されるスコットランド啓蒙思想は、このような原子論的人間観は現実的ではなく、実践的政治哲学とはなり得ないと考えた。そこで彼らは国家成立の原理などよりも、成立後の人々が「どのような動機で行為するか」に目を向け、行為する人間を実践的に捉えようとした。D・ヒュームの「理性は情念の奴隷である」という言葉に顕される人間観が自由主義思想の礎である。

各人は自己愛を持ち「各人なりの幸福」を実現しようとして行動する。そのために人々は互いに足りないものを交換や交易によって得る、そのような過程を通して人々は少しずつ「各人なりの幸福」を実現し、また同時にその過程で様々な障害に出会う。そのたびに人々は様々な方法を試してプラクティスを重ねる。

そのようにして社会には知識が少しずつ蓄積されてゆく。そして商取り引きや、そこで生まれる人間関係を通じて、その知識を広め、また学ぶ。競争もその手段のひとつである。慣習も少しずつ確立される。違反者を排除するルールも人々の間に黙約される。この社会の営みを経済的に見たときには、それを「市場」という。

現実的な統治技術という側面で国家や社会を考えた場合、そこで想定される人間観は超越的な道徳哲学とは絶縁されたところに求められるべきである。人間は決して有徳な存在ではない。それは私達が日々の生活の中で痛いほど身に沁みている。現在の我国のように、人々の政治参加が進めば進むほど世の中が善くなると考えることは誤りである。「群衆の専制は倍加された専制である」というE・バークの言葉を思い起こされたい。

少数者が多数者を統治しているのが現実である。これは仕方がない。それならば私達は「うまく統治される方法」を考えるべきである。そのために問題をなるべく政治過程に乗せることなく、社会活動の中の利害得失の関係の中で解決されるよう努力すべきである。何事も投票行動により決めようとするのは政治依存症である。決定のプロセスを社会活動の中に組込むという一事だけでも、自由主義は検討に値する思想だと私は思う。

by hishikai | 2008-02-07 14:38 | 憲法・政治哲学


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