2008年 02月 12日
『沖縄ノート』で大江健三郎氏はハンナ・アーレント著『イェルサレムのアイヒマン』を引用しているが、しかし実際のところ両氏の考え方は大きく異なる。それが最も顕著に見て取れるのが、アーレントがユダヤ人有力者たちにより組織された委員会が一般のユダヤ人達の移送に深く関与していたことを実名を掲げて指摘しているのに対し、大江氏が「旧守備隊長」という表現を「一般的な日本人」という意味であるとして実名の明記を回避している点である。この相違はどこからくるのか。私の考えは以下の通りである。 アーレントは一人の人間には民族という概念に表されるところの「自然により与えられた条件」と、個人という概念に表されるところの「法により与えられた条件」という二つの層があると考えている。そして裁きは「法により与えられた条件」に依拠しなくてはならず、被告は個人として裁かれなくてはならないと考えている。従って民族に関わりなく個人的責任は実名を揚げて指摘されなければならない。 一方、大江氏は「旧守備隊長」を本土の日本軍から現地の第三二軍、そして渡嘉敷島守備隊というタテの構造の最先端に表出した存在と考えている。そしてその命令系統に、皇民化教育、基地問題、差別意識といった日本から沖縄へ押し付けられた諸問題の経路を象徴的に見ている。従って「旧守備隊長」は「一般的な日本人」となる。 そして『沖縄ノート』の「かれはじつのところ、イスラエル法廷におけるアイヒマンのように、沖縄法廷で裁かれてしかるべきであった」という記述にみられるように、大江氏は「旧守備隊長」を裁くべき対象であると考えている。であるならば、その法廷は「旧守備隊長」という「一般的な日本人」を裁くのであるから、それは民族という概念に表されるところの「自然により与えられた条件」に依拠した裁きを思考することを意味している。つまり「旧守備隊長」は個人としてではなく日本人として裁かれるのである。 この両者の相違はアーレントが法の公共性の中で問題を捕足しようとするのに対して、大江氏が民族の共同性の中で問題を捕足しようとすることにある。但し私は大江氏の考え方に賛意を表すことはできない。その思考に従うならば私達は共同性の回廊を永遠に歩き続けることになるだろう。なぜなら大江氏の思考は日本人の沖縄人に対する押し付けという自身が提唱する問題を、裏返しで私達に見せているに過ぎないからである。 現実に今もこの表裏の関係が罪責と怨讐の同居となり、現実的な進展に対する作用と反作用として問題の解決を妨げている。具体的には国内の左右両陣営が一方は日本人の側に寄り添い、一方は沖縄人の側に寄り添う形で対峙しているのがそれである。両者は寄り添う側が異なるだけで、その対立軸は共に民族の共同性にあるのみで法による裁きのあり方を顧みる事がない。その意味においてこの両者は対立していない。表裏の関係である。敗戦から六十余年を経て我国の戦後問題が一向に解決しないのは、根源的にはこの共同性に立脚した思考への強い傾きのためであると私は思う。
by hishikai
| 2008-02-12 18:37
| 憲法・政治哲学
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