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2008年 03月 06日
春信の絵
春信の絵_e0130549_19421993.jpg過去の事象というものを考えるときに、私達は今現在の立ち位置から過去へ目掛けて吹き下ろしていくように思考を巡らせがちであるが、時間の流れの実際に従うならば、私達はその思考を遠い過去から現在の私達に向けて吹き上げるように巡らせるべきであろうと思う。

例えば鈴木春信の絵を目の前に置いて、この絵の背後にはどのような音曲が流れているのであろうかと考えるときに、現在の立ち位置から思考を吹き下ろしたときには、今も歌舞伎座などで演奏されている音程のしっかりとした均整の取れた邦楽を想像するのであるが、これを向う側から吹き上げるように考えるときには、その背後に流れる音曲に琵琶平曲から出雲の阿国を経て彦根屏風に達するであろう、あの不揃いな哀愁を帯びた、華やかさよりもむしろ世の果敢なさを唱うことを旨とした古曲を選びだすのではなかろうか。

鈴木春信が活躍したのは明和年間であるから、あと百年程で明治維新でもあり、そのような絵に古曲をあてるのは余りに中世の余韻を長く想定し過ぎるのではないかと、もしそのように思われた方は試しに清元でも常磐津でも長唄でもよいから現代の名人といわれる人々の演奏と、桃山晴衣により復元された貞享年間の古曲とを聞き比べながら春信の絵を眺めてみて欲しい。

私自信これを試して春信の絵が何のためらいもなく古曲に寄り添うのを感得して驚き、またみるみるうちにその絵が放蕩のデカダンスから、凡俗を軽侮する洗練された文人趣味のそれへと変化するのを目の当たりにするに至り二度驚いたのである。

平曲の仏教的な無常感は、古曲にあって現世的な世の果敢なさへとその重心をシフトしていると私には感ぜられるのであるが、それと同じ歩調で春信の絵は現世の凡俗に歩み寄って対決し、その一切をシャットアウトしている。植物性絵具の穏やかな色彩も、斜に構えた女の姿態も、白いすねを覗かせて風に舞う着物の裾も、それら凡俗の汚濁をひらりとかわして精神で拒絶しているのだ。

したがって鑑賞者が例えば歌磨呂の描く女の向う側にそのモデルを探り、長い射程の全体で歌磨呂の世界を堪能する過程とは対照的に、春信の場合には鑑賞者は紙の上に刷り出された女その虚構そのものに対して性的なアプローチを投げかけることとなる。なぜならば春信が凡俗の汚濁を拒絶した結果として、画中の女は向う側にモデルを想起せしめるに必要な現実的な肉感を失い、果ては女であるのか男であるのかといった両性の境すらも失っているためである。

しかしそれでも鑑賞者が彼の性的なアプローチに対して著しく用意を欠いた、通常の性の対象とはなり得ないその女に対して、あたかも青い渋柿を無理矢理かじり切るように挑みかかるとき、彼の心に発生する淫靡な罪悪感が裏返しとなり、禁忌を犯すエロティシズムとして香り立つ。それが鈴木春信の絵の魅力であろうと思う。

by hishikai | 2008-03-06 20:06 | 文化


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