2008年 06月 13日
成功者への憧れというのは人間の自然な感情だろうし自由経済体制にとっては必要欠くべからざる心的動機といったものであろうが、これが一人の人間の心の中で、自然の楽しみ方であるとか、文化的風雅だとか、文学的情操といったものと必ずしも上手に併存することがないのは、隠遁文人の生活の教えてきたところである。 自然の楽しみ方ということでいえば、奈良の北畑辺りの崩れた土塀の向こうから、連翹の花の春まだ浅い青空に清々しく咲き上がっているのを眺めるのは、ささやかながらも楽しいものであるが、成功者に憧れてまた自ら成功した人の自然の楽しみ方というものが、日焼けしてマグロ釣りとなってしまうのがそれである。 日本放送協会の『トップランナー』という公開番組で、ゲストに招かれた成功者の思うところや、成功の秘訣などを尋ねる会場の若い人の憧れの眼差しには、人生はレースで人間はランナーであるという考え方の迷うことなき受け入れがあるようで、致し方のないこととはいえ何か胸苦しい。 先日もある方のブログを読んでいて「みんな夢に向かって、一度きりの人生を精一杯生きていて、そこには、いろんな事が待ち構えているけれど、前に前に向かって歩んでいるのだ」という文章があり、殊に「前に前に」と重ねた言葉にこの方の苦しみが著わされているように思えてならなかった。 人間は夢を叶えるために生きている、そういうところに生きる意味があるという考え方は、現在では至極あたりまえのようになっているが、こういうことは今一度考え直してみる必要があると思う。夢や希望の実現を人生の価値の最上位に置くことの危険は、以下のようなナチスの強制収容所の話にも見て取ることができる。 「この収容所は1944年のクリスマスと1945年の新年のあいだの週に、かつてないほど大量の死者を出したのだ。これは医長の見解によると、過酷さを増した労働条件からも、悪化した食料事情からも、季候の変化からも、あるいは新たにひろまった伝染病の疾患からも説明がつかない。むしろこの大量死の原因は、多くの被収容者がクリスマスには家に帰れるという、ありきたりの素朴な希望にすがっていたことに求められる」(夜と霧/V・フランクル) 夢や希望の実現を生きる意味と同じに捉える人の、それが不可能と知った時の絶望。その絶望の中で生きる意味を自問する苦しみ。その答が見出せない時の生きる意味の喪失。そして訪れる生命の危機。この一連の過程を考えれば、夢を叶えるための人生が誤りであることが判る。大切なのは生きることそれ自体だ。生きることそれ自体が人間の義務で、義務は果たされなければならないということだ。ビリだって何だって、そんなことは生きることとは何の関係もない。 「私たちが『生きる意味があるか』と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し、私たちに問いを提起しているからです。私たちは問われている存在なのです。私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い『人生の問い』に答えなければならない、答を出さなければならない存在なのです」(それでも人生にイエスと言う/V・フランクル)
by hishikai
| 2008-06-13 14:25
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