2008年 12月 10日
今日のように文学を活字本で読み、絵画を美術館や画集で鑑賞するのは、その前提として文学を時間的芸術形式、絵画を空間的芸術形式と捉えて両者を別個に認める意識が私達にあるためだが、これはむしろ近代の考えで、古代の人々は時間と空間の表現を一つの形式に織込もうとして苦心し、またそれを当然だと考えていた。 八世紀、唐の都長安では通俗な言葉で経典の内容を説き聞かせる俗講という催しが各寺院で開かれ賑わったが、そのとき僧は絵画を掲げてこれを指し示しながら、散文による語りと韻文による唱いを交互に繰返して、人々に仏の教えを平易に説いたという。 その実例と目されるのが敦煌より出土した『牢度叉闘聖変』の巻画で、ここには表面に牢度叉と舎利弗の幻術比べが絵画として描かれ、裏面に物語の韻文が書かれていて、その存在は往時これを高々と掲げた僧の唱声と人々の嬌声の交錯を伝え、そして何よりも一つの表現形式に織込まれた時間と空間の交錯を私達に伝える。 このような典籍が我国に伝来した記録として正倉院文書に『古今冠冕図一巻』の書名があり、次に藤原佐世が宮中の本を分類した『日本国見在書目録』に七十八の図入りと思しき書名がある。そしてその中の十二までが唐の歴史書『歴代名画記』に同じくあることは、奈良朝の人々の大陸文化に寄せる知的関心の高さを示している。 やがて九世紀も後半、宇多天皇の御代に白居易の長詩を和訳した上に絵と和歌が加えられた『長恨歌』の物語が制作されて『伊勢集』にもその時に作られた歌が記録され、後の『源氏物語』の「絵合」にも源氏が取出して見る絵巻の中に『長恨歌』の書名が見られるといったように、これが我国の「絵巻」の有力な嚆矢となる。 これと同じ頃に宮中や貴族の邸宅に設えた屏風の絵が、それまでの漢詩文に則した風景や風俗から日本の景色へと変化していったことは『古今集』や『拾遺集』からも明らかで、ここに「やまと絵」の源流を見ることができる。これが上述の「絵巻」と相まって時間と空間を渾然一体とした我国の「絵巻物」へと繋がっていく。
by hishikai
| 2008-12-10 17:24
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