2009年 02月 04日
社会的虚偽に対する義憤、本然の人間性の愛惜追求、思うにこの精神こそ真のヒューマニズムで、文学の大道であろう。荷風先生はその陋巷趣味にも拘らず、文学の世界では久しくこの大道を闊歩しつづけた。だが先生の文学をいう者も多くは先生の高雅哀艶な装飾的部分を先ず注目して、遂に皮相だけしか吟味しなかった。 『墨東綺譚』の主人公、大江匡は既にお雪が風姿の可憐を認め、その性情の美の共に人情を語るに足るのを知って三月ばかりも通っている。普通ならば箕帚を把らせるべきところを、大江はこは一大事とこそこそとお雪から遠退いてしまう。その理由は何か。ここにこそこの篇の題目がある。 それは大江匡がお雪を真に愛していたからである。誤って彼女を良家の婦にすることによって「一変して救うべからざる懶婦となるか、しからざれば制御しがたい悍婦になる」のを惧れたのである。これは大江の過去が彼に教えた分別であった。 大江は、その處を得て快活な性質のままに陋巷に売色の生涯を送っているお雪を真心から愛している故に、彼女を堕落させるに忍びなかったのである。(荷風先生の倫理を以てすれば陋巷に笑を売ることは堕落ではなくて、真の堕落は懶婦となり悍婦となって所謂良家に主婦たるにある一事を此際忘れてはなるまい。) 乃ち大江匡は自己の所信によって、自ら彼女を失う苦痛に堪えて彼女から遠ざかる決心をした──殉教者の如くにである。然も真に彼女を愛するが故に彼女の願望を拒む所以を彼女に会得させる術を見出さない。この思想上の隔絶が一段と悲痛である。 年齢の相違、境遇の相違、そうして最後に思想の相違とこう重ね重ね自覚しては、大江は疑うまでもなく、まのあたりにお雪を見ながらお雪とは別の星に住む思いから別の生物のような感じにまで達したに相違ない。このさびしさの訴えは慣用に従った抒情などといういう言葉では済まされまい。(荷風先生の文学/佐藤春夫)
by hishikai
| 2009-02-04 13:41
| 文学
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