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2009年 03月 29日
保田與重郎『やぽん・まるち』(要約)
e0130549_2193759.jpg今年の春、私は珍しい古典の演奏会に招待せられた。その会の出入者は殆ど旧幕の子孫といった人々で、実に私は異常に回顧的なむしろ神秘的な感興をその集まりのさ中に禁じ得なかった。そして演奏された大多数が旧幕の時代の作品だという中で私は「やぽん・まるち」というのを最も深く感興を以て聞いたのだった。

あれを文字に写し得ない。大体が行進曲であろうと思われるのに、その曲節はある時は心持の深みへおち込み、むしろ呼吸をこらさせる様に、恐ろしい精神の苦闘をまざまざと見せつけて進んだ。以来その曲が心の不安となっていた私は、ふと『辺境捜綺録』という独逸人の見聞記に「やぽん・まるち」の記事を発見した。

「やぽん・まるち」の作者は日本の幕府の武士であったらしい。下層武士の例にもれず、彼も算数習墨の教授を表の内職として、内では皷の稽古をつけていたそうである。丁度当時幕府に参上した使節に一人の仏蘭西人があり、この幕吏はこの仏蘭西人を友に得た。二人は互いに異国の楽器を奏しあったりした。

そして日本の武士は西洋の音楽に刺戟されて、いつか自国の芸術に新しい分野を開こうと烈しい情熱で誓うのだった。それから幕吏は深更でも疑問が浮ぶと必ず品川の異人館まで二里の道を歩いていった。時にはあかつきの白々と明けようとすることさえあった。いつか彼は皷による一曲の「まるち」を作りあげた。

だが彼は完成ということを知らなかった。作品の生命を固定させることが出来ない。彼は皷に向かっているきりである。やがて京都の軍勢は三道から殺到してきた。仏国人は彼を南欧の故国に誘ったが、彼は黙然と聞いていた。仏蘭西人問うて曰く、君の心、日本武士の気持たるか、と。日本の武士笑いて答うるに、我は芸術を破り、心を破らん。ついに肉体まづ破るべきものなるか、と。

江戸の戦いは敗兵を上野に集めていた。その陣中のどこからか日夜をわけずに小皷の響わたるのがきこえた。まがいもなくかの幕吏であった。だが山中籠城は数日を耐え得なかった。寛永寺の宮が奥羽に落ちるとき「風流な者がいます」と語られたのを、隊長天野は空虚に「ハッ」と答えるだけだった。

上野のあっけない陥落は昼頃だった。あい変らず衷心して鼓をうちつづけていた「まるち」の作者は自分の周囲を殺到してゆく無数の人馬の声と足音を夢心地の中で感じた。しかし彼は夢中でなおも「やぽん・まるち」の曲を陰々惻々と、街も山内も、全てを覆う人馬の声や、鉄砲の音よりも強い音階で奏しつづけていた。彼にとって、それは薩摩側の勝ち衿った鬨の声よりも高くとうとうと上野の山を流れてゆく様に思われていた。ついに「やぽん・まるち」の作曲者名は判明しない。

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by hishikai | 2009-03-29 02:26 | 資料
2009年 03月 08日
サタ05船団の全滅とベトナムの好意(要約)
e0130549_23395376.jpg昭和二十年一月十一日。サタ05船団は設営隊512名とゴム、錫、重油、軽油を積載してベトナムのブンタオを出航、台湾の高雄を目指した。護衛艦5隻、輸送船5隻の船団だった。この時、ハルゼー提督率いる米国艦隊が南支那海海上にあったが、サタ05船団にその情報はなかった。

翌十二日早朝。船団の上空に敵航空機、数十を確認。「空襲、戦闘配置につけ」の命令が発せられた。敵機は編隊を解き、一機ずつ急降下して攻撃を開始。護衛艦はこれに対し高角砲と機銃で応戦。しかし雷撃を受けて3隻が撃沈されると、続いて輸送船を含む7隻全てが撃沈され、乗員500余名が戦死した。

生存者245名は、木の一本も生えていない、奇岩のそびえ立つ近くの無人島に上陸した。祠が一つあり「大漁祈願、航海安全」と記されてあった。艦艇から持出した海図によると島からベトナム本土まで約10キロ、対岸にロングフックという村がある。半没艦から資材を引上げて即席のボートが作られた。

十四日午前十時三十分。生存者から救援決死隊の9名が選ばれ、対岸を目指してボートを漕ぎ出した。追風に乗ったボートは三時間でベトナム本土に到着。上陸すると村民数百人に囲まれ、筆談するとロングフック村に案内され、黒い盛装で出迎えた村長は、ジャンク船による生存者の救助を約束してくれた。

列車賃を借りてサイゴンに行き、海軍指令部に報告して十六日午後に戻った。途中、若い夫婦がチマキと氷砂糖をくれた。生存者は隣のビンタン村の学校に収容されていた。村民は学校を休校にして屋外にいくつもの釜戸を設け、日本兵のために飯を炊き、果物や干魚を用意した。負傷者はベトナム人医師が手厚く治療した。

あれから47年、平成四年四月。戦死者の慰霊と村民への感謝のため再びベトナムを訪れた。奇岩そびえる小島で水を供えて戦友を慰め、その後、救助にあたった村々を訪れてお礼を述べた。歓迎パーティーがあの学校で開かれ、入口に張られた幕にはベトナム語と漢文で「よく戦った旧日本兵を村は熱列歓迎する」と書かれていた。

これは数年前の八月十五日、酷暑の靖国神社境内にひとり立ち、冊子を配っていたサタ05船団31号駆潜艇乗員、江崎修三という方の、その冊子の内容を要約した物語。

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by hishikai | 2009-03-08 23:49 | 資料
2009年 02月 02日
永井荷風『墨東綺譚』抄
e0130549_120578.jpg窓のすぐ下は日蔽の葭簀に遮られているが、溝の向側に並んだ家の二階と、窓口に坐っている女の顔、往ったり来たりする人影、路地一帯の光景は案外遠くの方まで見通すことができる。屋根の上の空は鉛色に重く垂下って、星も見えず、表通のネオンサインに半空までも薄赤く染められているのが、蒸暑い夜を一層蒸暑くしている。

お雪は座布団を取って窓の敷居に載せ、その上に腰をかけて、しばらく空の方を見ていたが、「ねえ、あなた」と突然わたくしの手を握り、「わたし、借金を返しちまったら。あなた、おかみさんにしてくれない。」「おれみたようなもの。仕様がないじゃないか。」「ハスになる資格がないって云うの。」「食べさせることができなかったら資格がないね。」

お雪は何とも言わず、路地のはずれに聞え出したヴィヨロンの唄につれて、鼻唄をうたいかけたので、わたくしは見るともなく顔を見ようとすると、お雪はそれを避けるように急に立上がり、片手を伸して柱につかまり、乗り出すように半身を外へ突出した。

わたくしは、ある時は事情に捉われて、彼女達の望むがまま家に納れて箕帚を把らせたこともあったが、しかしそれは皆失敗に終った。彼女達は一たびその境遇を替え、その身を卑しいものではないと思うようになれば、一変して救うべからざる懶婦となるか、しからざれば制御しがたい悍婦になってしまうからであった。

お雪はいつとはなく、わたくしの力によって、境遇を一変させようという心を起している。懶婦か悍婦かになろうとしている。(中略)しかし今、これを説いてもお雪には決して分ろうはずがない。

物に追われるようなこの心持は、折から急に吹出した風が表通から路地に流れ込み、あちらこちらへ突当った末、小さな窓から家の内まで入って来て、鈴のついた納簾の紐をゆする。その音につれてひとしお深くなったように思われた。(墨東綺譚/永井荷風)抄

※ハス ハズバンドの略 ※箕帚を把らせた 妻や妾にした ※懶婦 なまけ者の女 ※悍婦 気性の荒い女

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by hishikai | 2009-02-02 12:08 | 資料
2008年 12月 26日
『風邪ごこち』永井荷風(抜粋)
e0130549_1112978.jpg増吉はその裾を踵で踏まえながら、縫模様の半襟をかけた衣紋を正して、博多の伊達巻きを少しは胴のくびれるほどに堅く引き締めると、箱屋は直ちに裾模様の二枚重ねを取って、後ろから着せかけて置いて、女がその襟を合せている暇には、もう両膝をついて片手では長く敷く裾前を直してやり、片手では薦の上なる紋羽二重の長さは丸一反もあろうというしごきを、さっと捌いてその端を女の手に渡してやった。(中略)

この年月見馴れに見馴れた事ながら、男はさすがに始終肱枕の眼を離さず眺めている中、これも今夜初めてというではないが、芸者がお座敷という一声に、病を冒して新粧を凝らし、勇ましくも出立って行く時の様子は、あだかも遠寄せの陣太鼓に恋も涙も抛って、武智重次郎のような若武者が、緋威の鎧美々しく出陣する、その後姿を見送るような悲哀を催させるものだ⋯と思った。

箱屋は袋につつんだ三味線を持って、這入って来た時のように腰をかがめて出て行くと、増吉は男の傍に膝をつき、締めたての帯の間から、今挟んだばかりの煙草入れを抜き出しながら、

「お化粧したらかえって気がさっぱりしたようだわ。それじゃア、私行って来ますよ。早く貰ってすぐ帰って来るから、待ってて頂戴よ。晩の御飯一人でたべちまっちゃアいやですよ。」

「姐さん。車が来ました。」と下の方で下女の声。

男は半身を起こして唯だ頷付いていると、女はその手を軽く握って、「お腹が空いたら、私の牛乳があるから、あれでも飲んで置きなさい。」それから何ともつかずに唯だ、「よくッて?」と嫣然(にっこり)して見せて、増吉は褄を取って梯子段を下りた。(風邪ごこち/永井荷風)

まあね、人間はこうでなくっちゃア、いけない。大正初年当時は社会問題を扱った作品が許されないから、やむをえずこうした短篇を書いたと永井荷風は言うけれど、それにしては筆が冴えていて、ヒヤリとした好い女が見えるようだ。エッ頽廃的?そうですか、こんな結構な頽廃なら私はいつでもお引き受け致しますがね。

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by hishikai | 2008-12-26 01:29 | 資料
2008年 12月 24日
『江戸の残党』岡本綺堂(要約)
e0130549_2334650.jpg明治十五、六年の頃と思う。毎日午後三時になると一人のおでん屋が売りに来きた。歳は四十五、六であろう。頭には昔ながらの小さい髷を乗せて、小柄だが色白で小粋な男だ。手甲脚絆のかいがいしい出立ちをして、肩におでんの荷を担ぎ、手には渋団扇を持って、おでんやおでんやと呼んで来る。実に佳い声であった。

このおでん屋は私の父に逢うと互いに挨拶をする。子供心に不思議に思って聞いてみると、これは市ヶ谷辺に屋敷を構えていた旗本八万騎の一人で、維新後思い切って身を落し、こういう稼業を始めたのだと云う。あの男も若い時にはなかなか道楽者であったと、父が話した。

やはり十七年の秋、涼しい夜だったと思う。父と四谷へ散歩にゆくと、四谷伝馬町の通りには幾軒の露店が出ていた。その間に筵を敷いて坐っている一人の男が、半紙を前に置いて頻りに字を書いていた。今日では大道で字を書いても銭を呉れる人はあるまいが、その頃には通りがかりの人が幾許かの銭を置いたものである。

うす暗いカンテラの灯影にその男の顔を透かして視た父は、一間ばかり行き過ぎてから私に二十銭紙幣を渡して、これをあの人に遣って来いと命じ、かつ遣ったらば直ぐに駆けて来いと注意された。二十銭は多過ぎると思ったが、私は云わるるままに札を男の前に置くや否や一散に駆け出した。これに就いて父は何も語らなかった。

その時に彼は半紙に向かって「⋯茶立虫」と書いていた。上の字は記憶していない。今日でも俳句で茶立虫という字を見ると夜露に濡れた大道に坐る浪人者のような男の姿を思い出す。江戸の残党はこんな姿で亡びてしまったものと察せられる。

─岡本綺堂の小説『猿の眼』には上述と似た場面が登場する─

「明治四年の十二月の寒い晩に上野の広小路を通りますと、路ばたに薄い蓙を敷いて些(ちっ)とばかりの古道具をならべてゐる夜店が出てゐました。芝居に出る浪人者のやうに月代を長くのばして、肌寒さうな服装(なり)をした四十恰好の男が、九つか十歳(とお)ぐらゐの男の児と一緒に、蓙の上にしよんぼりと坐つて店番をしてゐます。」(猿の眼/岡本綺堂)

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by hishikai | 2008-12-24 02:37 | 資料
2008年 11月 20日
『最後の授業』(アルフォンス・ドーデ作)より要約
e0130549_12564992.jpgその日の朝、僕は走っている。学校に遅刻しそうだ。暖かいよく晴れた日、森でツグミが鳴いている。途中にある小さな掲示板の前に人だかりがしている。広場を通り抜け、学校になっているアメル先生の家の小さな庭に息せき切って飛び込む。けど教室に入るといつもと違って静かだ。もう席についている友だちの顔が見える。

アメル先生は終業式にしか着ない、立派な緑色のフロックコートを着て、細かいひだのある胸飾りを付けている。教室の後ろには、村の人達が生徒と同じように静かに座っている。もとの村長さん、郵便屋さん、それからいろいろな人達。オゼールじいさんは、ぼろぼろになった初等読本を開いている。アメル先生は言う。

「みなさん、私が授業をするのは今日が最後です。ベルリンから命令が来て、アルザスとロレーヌの学校では、ドイツ語以外の言葉を教えてはいけないことになりました。明日、新しい先生が来られます。今日はみなさんにとって最後のフランス語の授業です。どうか一生懸命聞いて下さい」

やがて授業が始まり、僕の名前が呼ばれる。むずかしい動詞の規則を暗唱しなくてはならない。これを大きな声で、はっきりと、一つも間違えずに言うためなら僕はどんなことでもしただろうに。でも僕は自分の席で立ったまま、体を左右にゆするだけで顔をあげることもできない。アメル先生の声がする。

「フランツ、先生は君を怒りはしない。これで君は十分に罰を受けた。私達は毎日こう思う(まだ時間はたっぷりある。明日勉強しよう)とね。その揚句がご覧のとおりだ。先生だって非難されるところがないとはいえない。君達に庭の水撒きをさせたり、鱒を釣りに行きたくなれば簡単に学校をお休みにしたのだから」

そこでアメル先生はフランス語についての話を始める。フランス語は世界で一番美しい、はっきりした、しっかりした言葉であること。だから僕たちでしっかり守り続け、決して忘れてはならないこと。なぜなら民族が奴隷になったとき、国語さえしっかり守っていれば、自分達の牢獄の鍵を握っているようなものなのだから。

それから先生は文法の本を読み始める。そして習字、お手本には「フランス、アルザス、フランス、アルザス」と書いてある。聞こえるのは紙を走るペンの音だけだ。庭のクルミの木は大きくなり、先生が植えたホップは窓から屋根まで花飾りを付けている。発音の練習ではオゼールじいさんの声も聞こえる。震えている。

そのとき、教会の大時計が正午を告げ、そして窓の下にプロシア兵のラッパが鳴り響く。アメル先生は、はっとして立ち上り何かを言おうとする。

「みなさん⋯私は⋯私は⋯」

だけど何かが先生の咽をつまらせて、先生はそこまでしか言えない。先生は黒板の方を向くとチョークを一本取り、全身の力を込めて大きな字でこう書いた。

フランス万歳!


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by hishikai | 2008-11-20 13:08 | 資料
2008年 11月 18日
『フランスの妖精』(アルフォンス・ドーデ作)より要約
e0130549_18171345.jpg「被告人は立ちなさい」

裁判長の声が響き渡ると、一人の老婆がふるえながら出てきて前の冊にもたれ掛かる。穴のあいたぼろ布をまとっている。血の気のない、日焼けした、しわだらけの顔をしている。パリ・コミューンの騒乱に乗じた石油放火犯の女達が腰掛けている席の辺りがざわついている。

「名前は」
「メリジューヌです」
「年は」
「いくつだか、もうわかりません」
「職業は」
「妖精です」

傍聴人も、弁護人も、政府委員も、皆が一斉に笑う。しかしメリジューヌは、落着いて言葉を継ぐ。

「フランスの妖精はみんな死んでしまいました。私が最後です。妖精はこの国の詩であり、純真さでした。妖精達がいた頃のフランスは美しかった。泉の石、古いお城のやぐら、池の霧の中には私達がいて、何か不思議な力が立ちこめていました。人々は信仰を守り、私達は信仰の中に生きていました。

けれども時代が進んで鉄道が敷かれると、池は埋め立てられ、森は切り拓かれ、私達は居るところを失いました。人々は信仰を棄て、私達は生きるすべを失いました。しばらくの間は、枯木の束を引き摺ったり、落ち穂拾いをしていましたが、やがてみんな死んでしまいました。そしてフランスは報いを受けたのです。

皆さん、どうぞお笑いなさい。でも私は妖精のいなくなった国がどんなものか、この眼で見てきたんです。満腹の腹を抱えて、人をあざけり笑っている人々が、プロシア兵にパンを売って、道まで教えてやるのを見てきたんです。そう、人々は妖精を信じなくなったけれども、それより祖国を信じなくなったんです。

もし私達がいたならプロシア兵を一人として生きて還えさなかった。魔物を遣って彼らを追い立て、その逃げ込んだ森の中の刺草をもつれさせて混乱させることができたのに。戦場で死にかけているフランス兵の、半ば閉じられた目に屈み込んで、故郷の懐かしい景色や人々を思い出させてあげられたのに。聖なる戦いはこうやってしなければならないのに。だけど妖精を信じなくなり、妖精のいなくなった国では、こういう戦いはできないんです」

ここで彼女の声はしばらく途切れ、裁判長が質問する。

「これまであなたの言ったことは、あなたが捕まったときに持っていた石油で、何をしようとしたかには触れていないようだが」

「私があの石油でパリに火をつけたんです。パリが嫌いですから。パリは何でも笑い者にするし、私達を殺したのもパリですから。私はあなた方のパリが燃えるのを見て嬉しかった。そうですとも、放火した女達の缶に石油をなみなみと入れたのは私です。そしてこう言ってあげたんです。『さあ、なにもかも燃しておしまい⋯』って」

傍聴席から浴びせられる罵声の中、裁判長が言う。

「連れていくんだ」

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by hishikai | 2008-11-18 18:23 | 資料
2008年 08月 23日
野村源左衛門の切腹のこと
e0130549_11535133.jpg野村源左衛門は小城の家中でもひときわ器量の優れた男である。芸能を始め、何をやっても人に劣ったことはない。中でも博奕は西目地方で随一といわれた。以前、他国へ行って博奕を打ったことが目付に知れたときも、藩主の鍋島紀伊守元茂公は源左衛門の器量を惜しみ、しばらく側役にお使いになったほどである。

だがその後、源左衛門は往来札を手に入れて長崎へ行き、再び博奕を打っておびただしい金銀を手に入れ、屋敷を買い求め、度々丸山の廓に遊んだ。このことが聞こえたので源左衛門は小城に呼び戻され、藩の掟に背いた廉で切腹を申し付けられた。

当日、源左衛門は介錯人を睨みつけて言う。「存分に腹を切り回し、十分にしすまし、『首を打て』と声をかけてから斬れ。もしも声をかけないうちに斬ったりすると、その方の七代までも呪い殺してくれるぞ」。介錯人は答えて言う。「安心せよ。その方の思うままに切らせる」

さて源左衛門は、腹を木綿でしっかりと巻き一呼吸する。やがて手にした刀を腹に深々と突き立てると一気に十文字にかき切る。はらわたが前に出て顔色が青ざめる。しばらく眼をつぶった後、小さな鏡を取出し自分の顔をながめて、紙と硯をくれと言う。

「もうよいのではないか」介錯人がそう言うと、源左衛門はかっと眼を見開き「いやいや、まだしまわぬ」と言って受取った紙に

腰ぬけと 言うた伯父(おんじ)め くそくらへ
死んだる跡で思ひしるべし

と書いて家来に渡し「これを伯父に見せてやれ」と言うと「さあ、よいぞ」と声をかけ、首を打たせた。

─『葉隠』第八巻より現代語訳にて抜粋─

(補注)野村源左衛門は杵島郡左留志の城主前田伊予守定家五代目の子孫。定家の我がままな振舞いが鍋島真茂の怒りに触れた為、子孫兄弟全てが野村姓を名乗る。源左衛門は定家の次男野村甚右衛門の曾孫であったが、この一件があって子孫は断絶した。

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by hishikai | 2008-08-23 12:04 | 資料
2008年 07月 29日
『野干(のぎつね)王城を攻むるの話』
往時某山の岩窟の中にありて、帝王の道を記し載せある書を読むものありけり。その書には臣下を御する法、国を治むる法、戦争の法、人を用ゆる道など様々の事を載せありて、普通人の知るべくもあらぬものなりけるに、一匹の白き狐ありて岩窟に忍び居り、其れを読む人の声を聞き年月を経るほどに心に悟る節あり。

白き狐次第に驕る心を生じ「我は読書の声を聞きて万法を知れり。されどこのままにては甲斐無し。獣の王に成るべし」と勇み立ちて棲所を立ち出で諸処を巡り行きけるが、某野にて一匹の痩せたる野狐に逢いしかば、突然に打ってかかり打ち殺さんとしけるにぞ、痩せ狐は驚きて「何とて弱き我をば殺さんとは」と叫びける。

「我は獣の大王なるに汝敬礼を欠きたれば、その罪を責むるなり。今より心をあらためて、良き臣下となり忠義を尽くさば許さん」と云うに痩せ狐は降伏して従いけり。一匹の臣下を連れ野を歩きけるに、また一匹の野狐に逢いけり「この無礼者を打ち殺せ」と二匹ながらに飛びかかれば、この野狐も降伏し臣下となりぬ。

それより白き狐は前の如くして、遂には数千匹の野狐を従えて威勢を奮い、使いを遣りて狸と鹿を説き伏せ、猿を降伏せしめ、狐狸鹿猿の総勢をもって猪を征伐し、熊を討ち従え、牛と馬とを従え、狼と豹を降参せしめ、象を臣下となし、虎を従え、獅子をも味方となしければ、白き狐は真実に獣の大王とぞなりける。

白き狐は驕りの心長じて「我は獣の王なれば、人間の王女を妻となさん」と望みを起こし、自ら白き象に跨がりて数十万の獣を引き連れ、王城を十重二十重とぞ取囲みける。国王驚きて使者をもて尋ねれば、白き狐は進み出で「我は一切の獣の王なり。されば王女を娶らんとて此処へ押し寄せ来たりしが、我が言葉に従い王女を与えればよし、さもなくば命令を発して王城を粉となし呉れん」と云いしよしを、使者は帰りて王に申す。

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王は愁い悩みて臣下を集めて問わるるに、臣下らもまた恐れ「人のみにては猛獣に敵い難し。王女は傷ましきことながら、一城の民の命と一人の恥辱とは替え難ければ、王女を白狐に与えて戦争なきようするには如かじ」と群臣同じく云い出でける。

そのとき一人の大臣座をすすめて「如何に方々、忌わしきことを云いたもうものかは。古今の歴史を承るに未だ曾て尊き王女を獣に与えしということあるを知らず。彼に力あれば我に智慧あり。彼に牙あれば我に刀あり。何の恐るることあらん。恥辱を受けて生きんよりは美しく死するがよし。それがし愚かなれども謀事あれば誓って無礼めの狐を打ち殺さん。戦争は望むところなり」と申さば、王は大いに悦びて「その謀事は如何に」と尋ねたもうに「いと易きことなり。その時に臨みて我が為すところを視たまえ」と申し置きたり。

いよいよ戦うことを狐の陣に云い、且つ又「戦いの前に此方よりも閧の声をあぐれば、其方にても獅子に閧の声をあげさせよ。その後大いに戦わん」と云いければ、狐は王女を与え呉れざるに怒りをなし「さらば王城を揉み潰して呉れん。我が臣下ども明日は力めて戦うべし」と命令を下しける。

翌日となりければ狐は堂々と陣を進め整々と隊伍を整えけるが、まず城中よりして、天地も響くばかりの大音あげ、皆一斉にどっと声を合わせ揚ぐれば、狐の陣にては獅子躍り出でて、岩をも裂くべき猛き声もて一声高く吼えたりけり。

もとより狐は小賢しき智慧のみありて勇気なければ、我が臣下の獅子の必死となりて叫びし声を聴くと、ひとしく白き狐は大いに驚き心騒ぎして、象の上より地に落ちければ、諸々の獣共この様を視て、己が王の頼みにならぬを悟り、棲所へ棲所へ走り還りける。狐は腰の骨を打ちて痛さに苦しみ居るところを、この馬鹿者めと国王の臣下にただちに踏み殺されける。

幸田露伴編『宝の蔵』より(彌沙塞部和醯五分律巻三縮張一ノ十一丁)

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by hishikai | 2008-07-29 18:40 | 資料
2008年 07月 27日
『阿呆吉』渥美勝(要約)
e0130549_3241411.jpg明治も中頃のこと、自分が彦根に居た時分に、吉つあんは銭湯に三助として半ば恩情で置いて貰っていた。三助といっても客の背中を流したり湯加減火加減に気を配って整えておくなどという器用なことは出来ない。そして他人から各種各様なことを言われても唯うんうんと答えるばかりなので、阿呆吉と呼ばれている。

吉つあんは寒暑を通して袷衣一枚で、そこに垢付いて皺だらけになった帯を一重回しに巻き、これを尻の上に結んで続けて七つばかりも結び目を連ね、あとはだらりと下げている。こういう扮装で、他人が笑おうがそしろうが、何処に風が吹くという顔をして、目途もなくぶらぶらと街路を歩いて行く。

吉つあんと呼べばうんと云う。甘味いものをやろうかと云えばお呉れと答える。やればうんと云って手にすると直ぐ口に入れる。お礼を言いなと云えば、またうんうんと云って、唯うんうんと云いながら貰ったものを更に頬張って、また目途もなくぶらぶらと歩いて行く。笑われはするが憎まれもしない。

吉つあんには馬鹿の一芸というべきものがある。吉つあんが例の風態で街路を歩む時、そこに石ころや瓦の破片があって、それが目に入った折は必ずこれを下駄で蹴って道傍の溝に落として行く。溝が見付からない場合には、溝のある所まで、溝に落ち込むことを見定めるまで、どこまでも根気よく蹴って行く。

ある時吉つあんが歯の欠けた下駄でせっせと小石を蹴って歩むのを見て、つい可笑しさに絶えず、近くに寄って「どうしてそんなに石を蹴るのか」と聞いたらば、返事に「人が躓くと悪いからなあ」とこれだけが短い挨拶であった。他人が躓いたからとてそんな配慮は不要ではないかとも聞いたが、話は一向不得要領で終わった。

その後私は郷里の外に遊ぶことが多かったから自然事情にも疎くなっていたが、一年帰省して旧友と語った際に聞いたことには、吉つあんの居候していた銭湯は主人が代わって、吉つあんは全然の放浪者となり、近頃は全く姿が消えた、聞けば中薮村辺の捨小屋で飢えて死んだそうだとの事であった。

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by hishikai | 2008-07-27 03:29 | 資料