2011年 03月 29日
![]() 中でも好きだったのは、あがた森魚さんの『赤色エレジー』で、本物を聴いたことがないので想像で弾き、そのたびに陶然としていたが、それでもいつか本物を聴きたいと思いながらも、叶うことなく、そのまま何十年が過ぎた。 週末の寒い晩、古い喫茶店の一室。私は、木の椅子を並べて設えた演奏会場の一番前の席に座っていた。やがて後ろの扉付近で拍手が起こり、ギターを弾きながら歌う声が聴こえ、それがゆっくりと近づいて来て、目の前で止まった。 あがた森魚さんだ。細身の人で、灰色の中折帽子に黒縁の眼鏡をかけ、あとは上着もシャツもズボンも靴も黒尽くめの、その人がギターを弾きながら、少しだけ体を左に曲げて、眉間に皺を寄せ、眼を瞑って苦しそうに歌っている。 甘い声だ。それは、詩人に取り憑いたナイーブでセンチメンタルな少年の霊が、身悶えする詩人の口の中から歌っているという様態で、高揚して更に身悶えし、狂気を孕み、また正気を取り戻して沈滞する。 『赤色エレジー』は想像よりも豊かで、暗黒的で── 母が死んでゆく病室の片隅で、譜面集を呉れた叔父がどうしようもなくしゃがみ込んでいる光景を思い出し、それからの何十年の事々も連れて思い出した。 あがた森魚さんの上着の右袖が、ギターの弾き過ぎで、擦れて破れている。日本のいろいろな土地をめぐり、幾つもの鉄橋や渓谷を渡り、暑い日も寒い日も、大きな会場や小さな会場で歌い続けた、彼の何十年を想った。 私は、私の何十年と、あがた森魚さんの何十年とが、この喫茶店で邂逅したように思えて、そして、目の前で歌っているあがた森魚さんは、あの頃の自分で、だからいっそ、あがた森魚さんを抱き締めてしまおうかと思った。 あなたの口からサヨナラは 言えないことと想ってた/愛は愛とて何になる 男一郎真とて/幸子の幸は何処にある 男一郎ままよとて/昭和余年は春も宵 桜吹雪けば情も舞う/さみしかったわどうしたの お母様の夢見たね/お布団も一つ欲しいよね いえいえこうして居られたら/裸電燈舞踏会 踊りし日々は走馬灯(あがた森魚『赤色エレジー』) ![]() ▲
by hishikai
| 2011-03-29 22:55
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2011年 02月 17日
![]() 只今、と云いながら十になる息子の弘が息を切らして這入って来た。おや、学校はどうしたの、と云うと、今日は一時間で授業がお休みになったんだよ、水が出ると帰り路が危険になるからこれで帰って宜しいって云ったんだよ、へえ、水が出そうなのかい?と、女史がそう云うと、何云ってるんだい、僕が歩いて来る後から水がどんどん追っかけて来たんで、僕、追い付かれないように一生懸命駈けて来たんだ、と、弘少年が云っているうちに、もうざあッと音がして、庭に泥水の奔流が侵入して来、見る間に床へ上がってきそうなので、女史と妙子とで慌てて其方側の扉を締めた。と、今度は反対側の廊下の方で潮騒のようなざわめきが聞えて、今弘少年が這入って来た戸口から水が室内へ流れ込んで来た。 扉を中から締めたぐらいでは直ぐに開けられてしまうので、三人の体で暫く押さえつけていたが、それでもどしん、どしん、と、戸口を叩き割るように打つかって来る。三人は協力して、テーブルや椅子などで突っかい棒をして堰き止めていたが、やがて、安楽椅子を戸の内側へぺったりと寄せつけてその上に胡坐を掻いて頑張っていた少年が、「やあ」と大声で笑い出した。と云うのは、忽ち戸が開いて、安楽椅子が、坐っている少年ぐるみ浮き上がったのであった。まあ、大変だわ、レコードを濡らさないようにしてよ、と女史が云うので、大急ぎでキャビネットからレコードを出して、何処か高い所へ置くと云っても棚も何もないので、もう水に漬かっているピアノの上へ積み上げたりしていたが、そうこうするうちにお腹ぐらいの深さになって、三つ組みのテーブルだの、珈琲沸かしのグラスの球だの、砂糖壺だの、カーネーションの花だの、いろいろなものが室内の彼方此方にぽかりぽかり浮き始めた。女史が、あら、妙子さん、その人形大丈夫か知らと、暖炉棚の上に載っている、妙子の作った仏蘭西人形を気にしたので、大丈夫でっしゃろ、まさかそんなに来えしませんやろ、などと云っていたが、実際まだその時分には三人ながらいくらか面白半分にきゃッきゃッと云っていた。 弘少年が学校の鞄が流れて行くのを摑まえようとして体を伸ばした弾みに、浮いて来たラジオの角へ頭をコツンと打つけて「あ痛ア」と云った時なんか、女史も、妙子も、頭を押さえている当人も、可笑しくて笑いこけたりした。そして、何でも半時間ぐらいはそんな風に騒いでいたのであったが、或る瞬間から、急に三人申し合わせたように真剣な顔つきになって黙り込んでしまった。妙子が記憶するところでは、あッと思う間に乳の辺まで水が来たので、カーテンに摑まって壁に寄り添っていると、多分そのカーテンが触ったのであろう、頭の上から額が落ちて来て眼の前に浮かんだ。(谷崎潤一郎/『細雪』より) 鹿鳴館以降、盛んになった舞踏会。尊王攘夷から僅か二十年後の光景に、早くも今日の私たちの姿がある。 ![]() ▲
by hishikai
| 2011-02-17 12:06
| 文化
2011年 02月 12日
今年の紀元節は荒天の一日であった。気象庁の予報したような積雪になるとは思われなかったが、それでも朝から身を斬るような冷たい風に吹付けられた霙混じりの雪が窓を打った。このような季節に建国の偉業を成し遂げた先人に、毎年のことながら畏敬の念を覚える。 私は夕方から「ピアノdeシネマ」という催事に出掛けた。サイレント映画をピアノの演奏と共に鑑賞しようというもので、演目は『肉體と悪魔』。1926年制作のアメリカ映画で、主演はジョン・ギルバート、助演女優はグレタ・ガルボ、上映時間は111分、当時としては一大長編映画である。 会場となったのは、大正時代に建てられ、昭和十年には東久邇宮盛厚親王の宿所にもなった渡辺氏所有の洋館である。私が到着したときには既に人々が集まっており、中にはいつもダンディな音楽史研究家の郡修彦先生や、十代のモダンガール若林さくら嬢の見知った顔もあった。 人々が上映室となる一室に案内される。灯りが落とされて上映が始まると、ピアノが刻一刻と移り変わる場面に合わせて演奏される。奏者は柳下美恵女史。女史の演奏は、時に楽しく、時に悲しく、絶妙の抑揚を以て作品を立体的に膨らませていく。技術はもとより非常なる集中力に感服する。 作品の舞台は第一次世界大戦前のドイツであろうか。グレタ・ガルボ演ずる魔性の美女が、二人の美男子を翻弄する愛憎劇である。明るい銀幕にグレタ・ガルボの美しさは際立っていた。ダンスパーティーの場面、彼女がアップになると客席は「おーっ」と感嘆の声を上げた。 映画が終わると戦前の服飾について講演があった。講師は淺井カヨ女史。日本モダンガール協會を主催する女史は、この世界では超の付く有名人である。お話はグレタ・ガルボの解説に始まり、1920年代の服飾の流行から1930年代の流行まで、大変に興味深いものであった。最後に蓄音機でリスト作曲『愛の夢』を聴いて散会した。 ![]() ![]() ▲
by hishikai
| 2011-02-12 19:22
| 文化
2011年 02月 06日
![]() 物語は1923年(大正十二)4月1日に始まる。「エイプリルフールの冗談でしょ!」渡欧中の朝香宮鳩彦王が交通事故で重傷を負ったとの知らせを受け、そう叫んだと伝えられる允子妃殿下は、しかし事態の深刻さを悟り、船上の人となって欧州へ向かう。 6月、妃殿下がパリ近郊のアルトマン病院に駆けつけた時、鳩彦王がベッドに起き上がり、会話ができるまでに回復していた安堵は、病室で撮られた写真の、鳩彦王に寄添われる妃殿下の微笑に残されている。11月に退院、お二人はパリ16区のアパルトマンに居を移す。 「結婚とは手に手をとって冒険に繰り出すことだ」S.フィッツジェラルドの言葉は、その後のお二人の生活を象徴している。常に部屋に飾られた生花。レコードの奏でる音楽。自家用車での外出。トゥール・ダルジャンやメゾン・プルニエのようなレストランでの食事。 欧州各国への旅行は、イギリス・オランダ・ベルギー・ドイツ・オーストリア・デンマーク・ノルウェー・スウェーデン・スペイン・イタリアにまで及ぶ。アルプスでは互いの体をロープで繋いで氷河を渡り、南仏の山岳地帯ではゴーグルを被り自動車を疾駆させている。 こうして二年を過ごし、1925年(大正十四)12月に帰国されたお二人の胸中に、新しい時代の息吹を映した宮邸建設の青写真があったことは想像に難くない。その後、フランスとの間で幾通もの書簡の往復があり、1931年(昭和六)に建設工事は開始されている。 基本設計を担当したのは権田要吉を中心とする宮内省内匠寮。内装を担当したのは1925年にパリで開催された「現代装飾美術・産業美術国際博覧会」の中心的な存在であったアンリ・ラパン。照明を始めとするガラス工芸を担当したのは著名なルネ・ラリックである。 1933年(昭和八)朝香宮邸は完成する。そのアール・デコ様式の美しさは今日様々に讃えられるが、さらに感慨深いのは、その美しい造形が、単に美しい造形にとどまらず、お二人が冒険に繰り出された日々を再現した、夢の器となっていることである。 大客室より次室を臨む。シャンデリアはルネ・ラリックによる《ブカレスト》。その下はアンリ・ラパンがデザインして、フランス国立セーブル製陶所が制作した《ラパンの輝く器》。 ![]() ▲
by hishikai
| 2011-02-06 12:04
| 文化
2010年 12月 14日
![]() ブランメルとは誰ですかと尋ねると、英国を代表する紳士ですと云う。少し考えて思いあたらないので、私が、存じ上げなくて申し訳ありませんと答えると、女性は、いいえ、私こそ無遠慮に見つめてすみませんと云い、読みかけの本へ視線を戻す。 ジョージ・ブライアン・ブランメル。通称ボー・ブランメル。十八世紀末から十九世紀初頭に英国社交界で評判を博した人物。平民の出身だが、オックスフォード大学から近衛騎兵連隊へ進むと、その立居振舞いや服装の趣味が評判となって、ジョージ四世の寵愛を受ける。 仏蘭西の華麗から英国の質実へ歴史が舵を切ったこの時代、ブランメルは新しい男性服飾の手本となった。純白の生地を高く首に巻き、仕立ての良い青い上衣を纏い、フィットしたズボンに磨き上げた長靴を履いた彼の姿は、並みいる貴紳連より控え目だが上等であった。 だがその態度は控え目とは程遠く、彼は一般に尊重すべきと信じられている一切のもの、権力、地位、学問や芸術の天分、女性の魅力という事々を浮薄と信じ、浮薄であると信じられている一切のもの、服装、立居振舞い、口調という事々を何よりも重要だと信じた。 物事の実質を重んずる教義を社会の玉座から蹴落とし、代わりに物事の形式を君臨させることが彼の生涯の企てであった。華やかな席で実際家を嘲弄する彼に社交界は狂喜した。そうした人生への態度は二百年後の今日まで「ダンディズム」の名で伝えられている。 歩廊に立って走り去る列車を見送る。降りる間際に、ご婦人に声を掛けて頂いたのは初めてなので巧い返答ができずお恥ずかしい次第ですと、弁解する私を見て微笑んだ女性の顔を思い出す。不思議な、それでいて少し名残惜しい気がした。 ▲
by hishikai
| 2010-12-14 23:26
| 文化
2010年 11月 09日
![]() 新内流しは唐桟縞の着物に、松葉尽しか何かの手拭を吉原冠りにして、角帯に三味線を吊り、自らこれを弾きながら、後ろに高音を奏でる上調子を相方に連れ、秋虫の鳴くような音曲と共に市中を流し歩く。 「ちょいと、師匠」と二階から女の声。「へいっ」と新内流し。「ひとつお願いしますよ」「ありがとう存じます」。客に呼ばれて軒先に立ち、悲恋情話を語り、あるいは唄う。一曲終えると客はお捻りを投げ、流しはこれを扇に受ける。 あるいは舟に乗って行なう者もある。川筋の茶屋では彼らを窓下に呼び寄せて語らせ、客は座敷の内に居ながら川浪の音と共にこれを翫賞する。その声は、歌舞伎と共に栄えた他の江戸音曲の華やかさとは対照的に、零落した人生の哀婉に満ちている。 雑誌は昭和四十六年の発行であるから、その頃まで新内流しのあったことは確実だが、いつ頃まで残っていたのか判らない。昭和の終り頃には錦糸町辺りで見かけたと、以前に飲屋の客の会話に聞いたことがある。写真には次の文章がある。 富士松さんは明治二十四年茨城県筑波の生まれで八十一歳、家業が床屋だったので十五歳のとき上京して床屋の小僧となった。店が州崎の花柳界のそばだったので、新内流しが来ると好きでよく後をついて歩いたものだった。ある日母親から、そんなに好きならやってみなさい、といわれて深川に住む宮太夫師匠について習い、以来五十五年にもなる。 三味線二人を連れて夏の夕方頃に深川の船宿「武藤」を出る。それから大川を上りながら舟で新内流しを三十年もやってきたが、柳橋、築地、中川、浜町とよく流したところも、今は高い護岸堤防が出来て岸辺の茶屋との縁を断たれてしまった。(雑誌『太陽』第九十八号) ![]() ▲
by hishikai
| 2010-11-09 12:53
| 文化
2010年 10月 02日
![]() とはいえ、あまりに久し振りだったので「おちゃめ」が言葉の中でどのように使われていたかを思い出せず、そこから何かそうした文章はないものかと考え、ようやく一つ本棚から見つけ出した。以下に書く。 御免して頂戴 吉子さん。 仲直りしなくって? やっぱし貴女(あなた)が居なくちゃあたし、淋しくてやりきれないわ。今迄の事御免して頂戴ね。どっちもいけないのだけど、あたしの方が沢山悪かったわ。 あのね吉子さん。 あたしじっとして居るのが退屈で仕方がないの、だからすぐに悪戯(わるさ)をして飛び廻るのよ。吉子さんもちっとお転婆になりなさいな。二人で思いっきり、ちゃめさんになりましょうよ。 怒っちゃ厭よ。わたしね貴女がはっきりとした動作をしてくれないと、心がムシャクシャするの。それですぐに怒っちゃうのよ。ほんとに怒っちゃ厭よ。これから二人とも、怒りっこなし。ね、 いいでしょ、よく笑う子になりましょ。明日行ったら葉子の方から、おはようを言いますわね。それから仲直りの握手をしましょうね。 きっと、さようなら。 (『女学生手帖』の「おたより文例集」より『新緑のたより』大正十四年) ![]() ▲
by hishikai
| 2010-10-02 12:31
| 文化
2010年 07月 29日
![]() 江戸の夕涼みは旧暦五月二十八日の川開きを頂点とする。これは両国橋辺の両岸を八月二十八日までの三ヶ月間だけ歓楽地として御上が認めるもので、この間は川下にかけて葭簀ばりの華やかな茶店が並び、あらゆる物売や見世物がごった煮のように集まる。 ここにやって来る人の群といえば凄いもので、平賀源内によると「人群衆は諸国の人家を空しくして来るかと思はれ、ごみほこりの空に満つるは、世界の雲も此処より生ずる心地ぞせらる」というのだから、それこそ押すな押すなの大混雑である。 第一の呼び物はやはり花火だが、どうやらそれが美しいとか芸術的だとかの理由から歓ばれたのではないことは、例えば「小百両灰にする夜のおもしろさ」という川柳からも伺うことができ、その不埒な感覚が何ともいえず江戸らしい。 そして玉屋と鍵屋がけんらんたる技術を競い、両国界隈が人の山になるのだが、他の日でも小舟に乗った花火屋が客の希望で上げる。あるいは川辺の大名や豪商の催す花火の宴も連日のようにあるので、両国橋の上はいつでも人垣が築かれているという有様である。 そんな時に夕立でも来ると大騒ぎだが、舟を浮かべている人にとっては「屋形から人と思わぬ橋の上」と優越感にひたることができる。また、そうした人生の悲喜を「あれも一生、これも一生」と、鋳掛道具を川に投げ込んで泥棒に転身する鋳掛屋松五郎のような人もある。 あたりまえだが全ての人が隅田川辺で花火を見物したわけではないようで、演劇評論家の秋山安三郎氏は、ご自身の幼かった明治中頃の思い出を次のように語っている。 「私などは貧乏長屋で育った子供なもんだから、いつも川開きの花火見物はゴミ箱に上がって背伸びしては遠く花火の音のするたびに「玉屋ッ鍵屋ッ」を叫んでいた組で…」(秋山安三郎/『江戸と東京』) ![]() ▲
by hishikai
| 2010-07-29 15:56
| 文化
2010年 07月 24日
![]() 「私はいま、日本近代を主人公とする長い物語の発端に立っている。物語はまず、一つの文明の滅亡から始まる。 日本近代が古い日本の制度や文物のいわば蛮勇を振った清算の上に建設されたことは、あらあためて注意するまでもない陳腐な常識であるだろう。だがその清算がひとつのユニークな文明の滅亡を意味したことは、その様々な含意もあわせて十分に自覚されているとはいえない。十分どころか、われわれはまだ、近代以前の文明はただ変貌しただけで、おなじ日本という文明が時代の装いを替えて今日も続いていると信じているのではなかろうか。つまりすべては、日本文化という持続する実体の変容の過程にすぎないと、おめでたくも錯覚して来たのではあるまいか。 実は、一回かぎりの有機的な個性としての文明が滅んだのだった。それは江戸文明とか徳川文明とか俗称されるもので、十八世紀初頭に確立し、十九世紀を通じて存続した古い日本の生活様式である。」(渡辺京二/『逝きし世の面影』) ここに言われている文明は民族のメンタリティーではなく、もしも私たちが江戸時代へとタイムスリップしたならば、そこで現実に目の当たりにする、建築や着物や装身具や様々な物売りの姿で構成された世界と、それを現実としている価値観のことであろう。 そうだとしても、確かに私たちは同じ時間軸の上を江戸から明治へと、転がるように文明が姿を変え、それが現代まで綿々と続いて来たと考えているわけで、江戸文明の廃墟の上に、明治という全く別の文明が近代国民国家の体裁で出現したとは考えていない。 だから渡辺京二の歴史感覚は私たちには耐えがたいものかも知れないが、それでも私たちの側からしても、例えば岡本綺堂や今泉みねの文章に、当時彼らが経験した江戸的な生活の滅亡が克明に描かれている以上、私たちはその事実に対して率直に向き合うべきであろう。 小粋な女 1860年代 ベアト 島田くずしに吾妻下駄で帯に手を入れる姿が、江戸下町の女性の粋であったようだ。当時は着こなしを見れば下町の人間を判別できたというが、この写真を見るとそれも頷ける。 ![]() ※当ブログ管理人のニックネームを「菱海孫」から「菱海」へ変更致しました。今後ともご愛読のほど、よろしくお願い申し上げます。 ▲
by hishikai
| 2010-07-24 17:27
| 文化
2010年 07月 14日
![]() 詩など解らなくても良い、いや、解らない方が良いとも思う。もしも私に子供があって、それが娘であったとして、それが年頃になって家に結婚したいという男を連れて来たとして、その男の職業が詩人などと言うのなら、詩など解らなくても良いと思う。 それほどまでに詩というものは、きざで、独りよがりで、いけすかないものに思える。しかしきざで、独りよがりで、いけすかないものを懸命に書いている人間がいて、それを幾らかの金銭で買う人間がいるのだから、やはり不安は尽きない。 三島由紀夫は詩人の伊東静雄の作風の『夏花』から『春のいそしぎ』への変貌に浪漫的イロニイを感じると言い、それを受けて橋川文三は、その変貌の姿の中に戦争に青春を過ごした自分ら多くの仲間の群像をうつしてみることができると言う。 「われは叢(くさむら)に投げぬ、熱き身とたゆき手足を。/されど草いきれは/わが体温よりも自足し、/わが脈搏(みゃくうち)は小川の歌を乱しぬ。(後略)」 (伊東静雄/『夏花』より「夏の嘆き」)昭和十五年 「おほいなる 神のふるきみくにに/いまあらた/大いなる戦ひとうたのとき/酣(たけなわ)にして/神讃(かみほ)むる/くにたみの高き諸声(もろごゑ)(後略)」 (伊東静雄/『春のいそしぎ』より「わがうたさへや」)昭和十八年 こうして『夏花』に戦前を過ごし『春のいそしぎ』に戦中を過ごした伊東静雄は、終戦後に軍服で復員してきた友人の来訪をひどく嫌ったいう。同じ人間の中に三つの人生がある。しかしこうして詩を比較してみても、詩を解ったことにはならない。 宵待草(セノオ楽譜)竹久夢二 画 昭和九年「まてど暮らせど来ぬ人を/宵待草のやるせなさ/こよひは月も出ぬさうな」(竹久夢二/『宵待草』)そう、このくらいなら何となく解る。でも、もうちょっと難しいやつが解ると申し分ないのだが。 ![]() ▲
by hishikai
| 2010-07-14 12:00
| 文化
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